大山積神社(大分県日出町)の石垣と巨石に纏わる伝承

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日出町の大山積神社

この日は、別府市にある別府大学傍のワクド石を見学してから日出町豊岡にある大山積神社へと移動。

個人的に気になっている別府湾北岸にあたる速見郡域から国東半島そして宇佐郡域にかけての大石・巨石等(遺構も含め)とこれらに纏わる信仰と伝承の調査も兼ねての見学のつもり♪

今回訪れたこの大山積神社の奥には石権現と呼ばれる巨石があり、其伝承による顕現は大化4(647)年という事で、時間軸としてはかなり古めに設定されているのも興味深い。
また巨石の存在だけではなく、江戸時代に旧豊後国森藩主久留島家によって寛政年間に築かれたという見事な石垣も現存する。

ただ天候にしても季節にしても、写真撮影には良い日ではなかったのが残念無念だったことは記しておこうw

大山積神社の概要 その位置と行程

大山積神社の鳥居と参道

住 所 大分県速見郡日出町豊岡
問合先 日出町観光協会 TEL:0977-72-4255
駐車場 参道入口付近に数台程
行 程 JR豊岡駅より徒歩20分。国道10号線小浦交差点より旧道方面へ車で5分
H P 大山積神社(https://oyamadumi.web.fc2.com/)

グーグルマップによる位置は以下の通り。

桜で有名な魚見桜もそうだが、JR豊岡駅の北側は道は狭く急坂が多い場所。
大山積神社へと至る道も同様で、選択した行程によっては嵌るかもしれないw まぁ駐車場はゆったりとしているのは救いだった。

グーグルマップのスリートビューで確認しておくのが良いかも^^

久留島家による城郭風の石垣が見事

家々を縫うような狭い道を登っていけば、右手に参道と鳥居、その奥には石垣が見えてくる。

大山積神社の石垣

車を止めて参道を進んで近づくと、小さな神社とは思えないほどの石垣がそそり立つ。
うん、これは草の少ない時期がよかったなと…。

社殿に向かうために石段を登ると、虎口のような造りになっていることが分かる。

大山積神社の石段

さて、山間にある小さな神社にあるこの立派すぎる石垣は、寛政年間(18世紀末~19世紀初頃)の豊後森藩主久留島家によるもの、石積み等からも城郭を意識した石垣であることが窺えるかと思う。

ここで少しく「おや、日出町なのに日出藩でなくて?」と思われるかもしれない、「豊後森藩って玖珠あたりじゃないの?」と。
というわけで、次段にて小藩分立と言われる江戸期大分県の領地と共にそこらを見ておきたい。

城を持てなかった藩主久留島家の意地か執念か

まずは、参考までに大分県内における藩領地図をあげておく。
合間で地図を作っていたのがこんなところで役立つことにww

大分県内江戸末期の各藩所領図

江戸期の現大分県内に存在した藩を石高順にあげると、中津藩(奥平家・10万石)、岡藩(中川家・7万石)、臼杵藩(稲葉家・5万石)、杵築藩(松平家・3.2万石)、日出藩(木下家・2.5万石)、府内藩(大給松平家・2.2万石)、佐伯藩(毛利家・2万石)、森藩(久留島家・1.2万石)となる。
これに天領をはじめ熊本藩、島原藩、延岡藩の領地も点在、現大分市周辺がややこしかったり、各地に飛地があったりというのが分かるかと思う。

※時期により石高は異なるため参考として。大給松平家は、「おぎゅうまつだいらけ」。

大山積神社のある現日出町豊岡や現別府市の明礬付近は、久留島家の森藩だったことが分かるだろう。
現在の豊岡港(大分県速見郡日出町)だが当時は頭成(かしらなり)港であり、藩主の参勤交代用の船が「速見郡辻間村頭成の湊」にあったわけで、現大分市の海岸部に肥後藩、岡藩領があるのも同様の理由。

さて、大分県内で森藩は一万石大名として知られているけれど、文化10(1813)年の石高別大名数(「一万石大名の城下町」、中島義一による)を見ると5000石で有名な喜連川家も含め全国では81家の一万石大名が存在。
九州や四国だけだと数家しか存在いないため珍しく思われるが、畿内や関東付近では数多い事が知られており全国的に考えるならばそこまで珍しいものではなかったりする。

まぁ単純に石高だけで見れば、佐伯藩、府内藩、日出藩なんかもほぼレベル的には森藩と変わらないと言えるのだけれども実は大きく違っている点があった、それは森藩久留島家だけが城を持つことが許されていなかったという事。

これは大名家としての家格というのが関係しており、国主(国持大名)、準国主、城主、城主格、無城(陣屋)の五階級で、城主格以上の大名家に国許の屋敷として城が認められるというものがあり、単に石高のみで城を持てるか否かが決まった訳ではない。

これにより佐伯藩、府内藩、日出藩は城持ち大名であり、森藩は城無大名(陣屋大名などとも)とされ、現在の玖珠郡玖珠町森864にある末広神社周辺には、豊後森藩の藩庁が置かれ森陣屋(久留島陣屋とも)が置かれていた。

このためか歴代森藩主は城持ちへの夢があり八代藩主通嘉(みちひろ)は森陣屋西側の丘陵にある神社再興工事で、三重四重の神社とは思えないような石垣を巡らせたのも城持ちという長年の夢を叶えるためのものだったと伝わり、この大山積神社も同様なのではと言われている。

石垣を石段から

確かに武者返しと呼んでも差し支えないほどの大山積神社の石垣からは久留島家の執念すら感じられる。

日出町遠景

日出藩の暘谷城を見下ろすかの如き眺望は森藩の当て付けか? などと考えるのは行きすぎだろうかw
まぁ神社ですからねと♪ 何にせよ別府湾を望む高台からの眺めは頗るよろしかった、ただ天気さえ良ければと。

ご祭神は大山積命、級長津彦命、級長津戸辺命

大山積神社拝殿

境内にある「大山積神社改築記念碑」によると、祭神は大山積命(オホヤマツミノミコト。大山津見神、大山祇神)、級長津彦命(シナツヒコノミコト)、級長津戸辺命(シナトベノミコト)とされ、また「境内神社」として石権現、多賀宮、町崎宮、社日宮がある。
愛媛県今治市大三島の大山祇神社からの勧請かと思われるが詳細は不明。

オホヤマツミは記紀に登場する日本神話の神で、詳細な記述こそ多くないがオホヤマツミの子を名乗る神も多い。

全国の大山祇神社(山積神社/大山積神社/大山津見神社含む)の他、三島神社(三嶋神社)や山神社(山神神社)の多くで主祭神として祀られ、大分県内にも多く見られる神社形態の一つでもある。

山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将からの尊崇を集めたり、酒造や各地の山岳信仰と結びついたり、鉱山の安全に関わったりと多様な姿を見せる神。

※オホヤマツミの「ツ」=「の」、「ミ」=「神霊」であり、「オホヤマツミ」とは「大いなる山の神」の意とも。

一方の級長津彦命、級長津戸辺命は風雨を司る神とされ、農業に深く関わる風と雨の順調や航海安全の守護神として崇められた。
これら二つは同一であったり、シナトベは女神であり神社によってはシナツヒコの姉または妻とされることも。

また元寇の際に神風を起こした神様が、伊勢神宮の風宮・風日祈宮に祀られている級長津彦命、級長津戸辺命ともされる。

古来「科戸の風(しなとのかぜ)」という言葉もあり、邪気を祓う神風を指す言葉でもある。
白土三平の『カムイ伝』にては、「風(シナド)のトエラ」というカムイと同じく赤目を師匠とする兄弟分が登場する。

大山積神社のご祭神は、村上水軍の一角を担った久留島家(往時は来島家)が崇めるに相応しいものであったことが理解できるかと。

巨石信仰の名残か? 本殿奥に安置された石権現様

お参りを済ませ、拝殿に向かって右手から本殿の裏手へと回っていく。
久留島家の石垣を堪能したせいか本命であったはずの巨石関連の写真が少なかったことに唖然としたのは帰宅してから、そりゃあいかれんちゃ。

境内の祠

巨石へ向かう手前には祠が二つ。
おそらくは境内社としてある多賀宮、町崎宮、社日宮だろうが、詳細は不明。

本殿裏の巨石付近

木々も鬱蒼としてはっきりはしないが中々の大きさの巨石であることが分かる。
一礼してから奥へと進む。

石権現様

ここにも二つの祠が安置されていたが、ここが石権現様が安置された場所のようだ。

石権現様の由来と伝承

大山積神社の前身でもある「石権現」の由来は以下のようなものと伝わっている。

第三十六代孝徳天皇の頃、大化四(六四七)年 九月十二日のこと。
辻間村の村主(※1)の夢にて丁字庵(※2)の山腹、凶寅(※3)に当るところに猛烈な神火が顕現したという神勅を得た。
そこで村人と共に大石の下に石祠を建立。
「石権現」と呼んで産土神(※4)として祀ったのがその初めである。

※1 原文は村首、スグリかと。
※2 大山積神社の住所は現日出町大字豊岡字丁字庵でもある。日出町地籍調査事業より。
※3 凶寅はうしとらか。北東・うしとらの方角、鬼門にあたる。
※4 うぶすながみ。神道において、その者が生まれた土地の守護神を指す。

この地域の産土神(産土とはその人が生まれた土地の意で、その土地を守護してくれる神様をいう)の由来とも思われる伝承となっている。

石権現の読みは…、読みは分かれば嬉しいw 全国の類例(石神社)からだと「いし」か「いわ」のどちらかになるかと、再訪の機会があれば聞き込みと確認をしてみたい。
ただ石権現にしろ石神社にしろ、あまり例の多いものではない。

大分県内にあったかなぁと調べると、旧野津原(「のつはる」だが「のっつある」のがらしく感じられるかも♪)町の今市にあったんだなこれが@@ 
現住所だと大分県大分市今市3293に石神社があり、ご祭神は布都御魂命(フツミタマノミコト)とのこと。

芹川にエノハ釣りへと行く時毎回通っていたとは、知らんかったわぁ。

巨石には馬の蹄跡が残るという伝説も

この巨石にはもう一つ伝説がある、「馬の足跡のような大小無数の穴があり、神霊が白馬に乗って降り立った」というもの。

祠の名称や神社名は記載されていないが、市場直次郎の『豊後伝説集』にこの事だろうと思われる話が示されているのであげておく。

豊岡の町に小さな権現の祠がある。傳へる所によれば、この御神體が、昔此處より十町程隔てた西の谷と云ふ部落の山に飛ばれたと云ふことで、今では此の地に元宮より遥に大きいお宮が建てられてある。そしてそのお宮の裏に岩があつて、其の岩に馬の足跡と云ふのが殘つてゐる。これは神様が馬に召されてこの地に飛ばれたと云ふのである。(遠藤禮子)

神馬の蹄跡(速見郡豊岡町) 『豊後伝説集 市場直次郎 編 (1931年)』

西の谷を日出町地籍調査事業で確認すると、石権現の東を流れる友安川沿いの谷に位置している。
権現の祠やお宮の裏の岩といいこの巨石に関する伝説とみてよいだろう。

直接的な古い巨石信仰はもちろん見えることは無いのだけれど、古代から中世期にこの巨石が信仰対象として周辺地域で崇められていたことを窺わせる伝説のようで、より古層の信仰形態からの変遷を思わせる。

日出町にはこれら巨石信仰遺構とでも呼べそうな場所として、この石権現様以外に石槌神社、北峯神社元宮(石祠)、七ツ石山、経塚山などをあげておきたい。
周辺の巨石及び石祭祀として、宇佐神宮の奥宮がある大元神社、不思議な立石群の佐田京石と米神山、旧山香町の下山環状列石、別府市北部にあるという縄文期の敷き詰めた石群遺跡や姫山メンヒル、少し北に外れるが豊後高田市の猪群山のストーンサークルなどもある。

日出町って県内では「お町」かと思うけれど、古い儀礼や祭祀が残っているだけでなく百合若大臣関連、人柱、祟りなど個人的な興味も深いので、巨石関連と共に継続して追いかけていきたいと思う。

大山積神社の石垣と石権現の伝承のまとめとして

何時頃に石権現様が大山積神社となったかは不明だが、久留島家を考えれば江戸期以降だろうか。

寛文3(1663)年のこと、参勤交代で頭成港から出発した一行が周防国屋代島沖で暴風雨に遭い藩主の弟である通方の御座船が座礁転覆し、通方他家臣10名全員が溺死するという惨事があり、大山積神社勧請と何らかの関連があったのかもしれない。

一方で石権現様に関しては巨石信仰とは呼んでみているけれど、現状は明確な姿が見えているわけではなく、残り香とでも言うべきものが漂ってくるのみ。
まぁ今後も調査をしていくのが楽しみとなった探訪だったなと。

久留島家が造営した見事な石垣、そして古い巨石信仰の名残と思える石神様の存在、初春の桜の季節、近くにある魚見桜とともに訪れてみるのをお勧めしておく♪

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