七ツ石は大分県別府市荘園の七ツ石公園内にあり、名称の由来はその名の通りに大きな七つの石があることから。
巨石巡りの一環として訪れたのだけれど、それのみならず七ツ石温泉、七ツ石稲荷神社、石垣原古戦場跡も同公園内にあって、温泉好きで神社仏閣好きそして歴史好きな自分には1カ所で4度美味しい場所だった。
ただし、今回七ツ石温泉に入浴する時間はなかったのが残念、機会を見ての入浴を希望♪
【七ツ石の位置とルート】
別府駅からは車で10分程、鶴見ヶ丘高校からは南西に約780m。
内山と鶴見岳方面から別府市を東流する境川に沿う荘園(そうえん)通りを行けば、赤い幟と鳥居が目印となる。
一応駐車スペースは御神木周辺に2台分あるが、海側から上がった場合は入りにくいかもしれないし、存外狭かったのでご注意を。
車を停めてそのまま進むと一の巨石裏に出るので、一度歩道に出てから鳥居をくぐるのをオススメしておこう♪
七ツ石の由来は合戦と白狐
荘園通りに面した赤い鳥居をくぐるとすぐに第一の巨石が迎えてくれる。
説明版には「願い事を強く思いながら、また体の悪いところに触れた手で大石を撫でると叶う」とあったので、ペタペタとしてから手をあわせた^^
さてこの公園内には七ツ石を巡る楽しみだけではなく、石垣原合戦の石碑、説明版、手作りの武将絵に撮影用の顔出し看板、3番目の大石上に安置されたお稲荷様、温泉施設、御神木、すべり台等があって、玉手箱いやおもちゃ箱をひっくり返した感じとでも言っておこうか。
このカオスな感じが別府らしく、手作りのイラストや説明版も味があって、なんかいいなぁなんてホッコリ♪
石垣の地名と昭和初期頃の周辺地図
石垣は平安から鎌倉期にかけて宇佐神宮領、その後大友氏の支配下から、江戸時代に天領となり、豊後国志では江戸期石垣荘の範囲を「別府・竹之脇・小野・小平・南石垣・中石垣・北石垣・南鉄輪・北鉄輪・平田・野田(以下略)」と記しており、かなり範囲が広いことがうかがえる。
豊後国速見郡誌では石垣の地名について、江戸時代の儒学者・貝原益軒(かいばらえきけん)の著した紀行文『豊国紀行』をひいて「此処を石垣と称せしは、もとより石多き所なれば、農人畠を作らん為に、石をひろいあつめてつみあげしかば、おのづから石垣となりし故也」と記している。
境川沿いの石垣原周辺は古くから荒地であったようで、開拓等も進んでいなかったのは下記の地図からも見て取れる。
地図では鶴見原となるが、呼称の新旧等は不明。
※以下2つの地図は、ひなたGISを使用。元画像は『別府』五万分一地形圖、明治36年測量、昭和2年修正図、日本版 Map Wrapperより。
余談だが既に鶴見園があるのが分かるだろう、ただこれは鶴見園レジャーセンターやグランドホテルとして再開以前のものだったりする。
個人的にはレジャーセンターの回転ブランコで遊んだ記憶が懐かしいが、戦前の鶴見園は「九州一の大遊園地」を自称する大規模な総合レジャー施設であり、大劇場で演じられた鶴見園女優歌劇は「九州の宝塚」ともいわれ人気を博していた。
現在の別府は大分自動車道から海岸線沿い迄がほぼ宅地を中心に開発済なので想像しづらいかも、ということで下記に現代との比較地図を載せておく。
七ツ石周辺は昭和初期からの開発により荘園(そうえん)となったもので古い地名ではなく、七ツ石という名称も江戸期以降の模様。
説明版や別府市史などとみていくと七ツ石の契機となったのは、どうやら石垣原の戦い前後のようだ。
石垣原の戦いと七ツ石稲荷
慶長5(1600)年に起きた関ヶ原の戦いの際、この別府の地でも豊後国大名返り咲きを狙った大友氏第二十二代当主義統率いる大友軍と秀吉旗下で「二兵衛」と並び称された黒田孝高(官兵衛・如水)の黒田軍がぶつかったのが「石垣原の戦い」である。
数で劣った大友方は善戦するも吉弘統幸、宗像鎮統等の主立った武将が討ち取られ敗戦、義統は東国に流罪となった。
戦場の範囲を大まかに記すと杉乃井から実相寺山までの範囲で、別府市内各所に陣址や墓所が残っている。
大友方の敗戦を語る資料を一つ上げると、
二百餘人戦没し、大友家の最期を語るの塲である。(中略)土民傳へ云ふ、月闇く天陰るの夜は、往々鬼哭瞅々の聲を聞くと。
豊後名勝地獄奇観の205頁石垣原の項
とあり、合戦及び後日の心霊譚の伝承が示唆されているのは興味深い。
文献史料が見つからないため元々から七ツ石への信仰があったのかは不明だが、石垣原合戦の後に「この付近の雑木林にある大石の周囲に白狐が現れると噂になり、大石を祀り拝むようになった(七ツ石稲荷神社説明版より)」とあり、七ツ石の地名及び稲荷信仰へと繋がったとされる。
大友と地元豊後武士団の崩壊と忠義の武将の討ち死という現実、その後夜にすすり哭く戦没者の霊を慰めるように顕れた白狐が、七つの巨石群と結びつきながら信仰を形作ったのだろう。
七つの巨石と民間信仰
敷地内にある七つの巨石には、番号が記された赤い標柱が建てられているので目印にして、敷地内を順にみていこう。
入口の鳥居からすぐにあるのが「七ツ石その一」
お稲荷様の鳥居左手の道を御神木方面に進むと、その根っこ付近にあるのが「七ツ石そのニ」。
手前側にその四があるので縁起をかつぐなら踏みたくないかと^^
「七ツ石その三」はお稲荷様の御神体で、祠が置かれている。
周囲はブロックで囲まれているので気づきにくかった^^
御神木手前に平たく埋まっているのが「七ツ石その四」、3つの巨石(2、4、6)が御神木のぐるりを囲っているのが見えると思う
「七ツ石その五」は、その四と道を挟む形で鎮座している。
駐車場の脇にあるのが「七ツ石その六」、写真の右側が御神木となる。
ちょっと探したのが最後の「七ツ石その七」で、最奥すべり台の横の竹林の中にあった。
主に信仰対象とされているのは、鳥居をくぐってすぐの注連縄が巻かれた石(1番)と、稲荷神社拝殿にあるご神体(3番)の2つの模様。
最も目立つ1番は、パワースポット化している。
石垣原の戦いの際に大石(1番らしい)の上で、吉弘統幸が最後の力を振り絞って槍をふるったという伝承が残されている。
近くには統幸の「腰掛石」があるようで、
石垣原畜産試験場九州支場内に在り。
豊後国速見郡誌(488頁)
(中略)
高さ二尺、太さ一尋、今試験場より棚をめぐらし一区画をなす。
(中略)
右腰掛石は公(吉弘統幸のこと)が此上にて最期を遂げしより其名ありと。
と統幸に関する類話が伝わっていたことが分かる。
腰掛石の場所は捜索中だがおそらく温研(現九大別府病院)内の北西付近かとグーグルマップのストリートビューをみると、それらしき石も見られるが不明のため確認予定。
伝承が混交しているのかは分からないが、大友氏に忠節を尽くして散った吉弘統幸への情があったことを窺い知ることはできると思う。
まぁ石と民間信仰というテーマで調査を始めたばかりなので、色々と理解できるのはまぁこれからだろうなとのんびり構えております♪
七ツ石関連の参考史資料等
直接七ツ石に掛かる伝承等は見つからなかったのは残念、今後の史料精査待ちということでヨロw
■豊後名勝地獄奇観 大正10(1921)年 定村杏三著 甜梅書院 国立国会図書館デジコレ
■豊後国志: 附・箋釈豊後風土記 昭和6(1931)年 二豊文献刊行会
元本 豊後国志 享和3年(1803年)唐橋世済、田能村竹田(田能村孝憲)、伊藤鏡河(伊藤猛)編著
■豊後速見郡史 大正14(1925)年 大分県速見郡教育会 編 国立国会図書館デジコレ
■石垣原合戦の史跡について 平成3(1991)年 矢島嗣久 別府史談.5
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