国史跡 古宮古墳はJR大分駅から南西に直線距離で凡そ1.8km、大分市季の坂1-5-11にある。
椎迫地区丘陵の南斜面に位置するが、大分IC開設及び取り付け道路や住宅地造成などの開発によって周囲の変化は著しく、また墳丘自体も土砂の流出等で石室も露出しており本来の姿は失われている。
それでも古墳造成最終末(終末期古墳)のため目を惹くほどの大きさこそないものの、主に畿内に分布する横口式石槨(石棺式石室とも)は九州唯一。おそらく一般受けすることはないだろうが、郷土史・歴史・古墳愛好家ならば見ておきたい古墳だ。
1983年(昭和58年)5月11日の国史跡指定に伴う整備もなされ、上り下りさえ気にならないのならば見学に問題はない、はず♪
古宮古墳の位置と散策ルート
古宮古墳 位置図
季の坂に入ってすぐ右側に専用の駐車場があるので利用したい…、ところなのだったが探訪時はチェーンが張られて利用できなかった。
楽をしようと住宅地の奥まで行ってもショートカットは不可だったので車は無理やり駐車場入り口付近に止めることになった。
徒歩ならば、西の台医院向い側から上がる道を利用しても良い。
駐車場脇にから続く急な階段を登ってからそのまま道なりに進めば、古宮古墳と記された標柱が見えてくる。
道を下り始めるとすぐに分岐点、左が古宮古墳で右が展望広場となる。
丘陵の最高所あたりに展望広場が設けられているが樹木に囲まれただの広場と化している。
古墳前面の方が見晴らしが良いのだが、自分だけ疲れるのもアレなので是非とも現地で確認をしてほしい(笑)、葉っぱで覆われた陶製の周辺文化財地図が迎えてくれるだろう。
文化財整備と維持の難しさを感じてしまうw
分岐点から急な階段を下ると、右側に周囲をコンクリートで補強された古宮古墳の全景が見えてくる。
国史跡 古宮古墳
文化財・史跡情報
- 古墳名 古宮古墳
- 場所 大分県大分市大字三芳字宮畑
- 形状 方墳
- 規模 南北約12.5m、東西約12m
- 築造時期 7世紀末~8世紀初期
- 被葬者 大分君恵尺(おほきだのきみえさか)と推定
椎迫の丘の南側斜面にめり込むような形で方墳の周縁部が残り、石室が露出している。
現状からは往時の様子を想像しづらいのでは?と思われ、古墳や方墳というイメージから台地の上や平地にあるものを想定して行くと面喰うことになるだろう。
説明版にも記されているように、北側背後に山、南に毘沙門川を臨む箇所に築かれていることから、背山臨水の立地という風水思想の影響を窺うことができる。
古宮古墳から一つ南側には毘沙門川(住吉川)を挟み賀来方面から上野へと東に延びる丘陵がある。
現大分市街中心部南にもあたるこの上野丘陵を中心に、大臣塚、蓬莱山、丸山、丑殿、弘法穴等々の古墳が点在している事から、古代から中世に繋がる大分市の歴史を見ていく上で重要な場所と考えている。
また上記編年から分かるように、古宮古墳は古墳時代の最終時期に想定されており、現時点では大分県内でも最も新しいつまり最後に作られたものでもあるようだ。
参考までに、昭和49年(1974年)頃の航空写真で古宮古墳周辺を確認しておく。
南面する斜面上にあり風水思想的に近いものに感じられる大分市永興にある弘法穴古墳の立地は、製作順もあって気になってしまう。
ちなみに古宮古墳の西側には亀甲山古墳があり、三角縁三神三獣鏡(銘文なし、完形21.5cm、1911年出土、東博蔵)、重圏文鏡(銘文なし、完形5.8cm、1911年出土、東博蔵)他の副葬品もあったが、開発の中で消滅している。
亀甲山古墳は4世紀初め頃とされるが、上野丘丘陵を中心とした勢力の最初期の古墳と考えられそうな事からも惜しまれる。
九州唯一の横口式石槨(石棺式石室)
円墳や前方後円墳など古墳の形状には種類があるが、棺を納め埋葬する石室にも色々な種類がある。
横口式石槨とは、「切石を用い内部は木棺や乾漆棺を納められるよう大きさに造り、短辺の小口部が開口するもの」ということだが、形式・分類等は古墳研究者の領分なので、下写真の現物を見てもらう方が早いだろうw
大分市の滝尾百穴古墳群や埼玉県の吉見百穴を思い浮かべたのは悪くない、はず。
ただし、刳り貫いているのは崖ではなく岩、そこにあったのか運んで来たのかは不明wで、そこに短い羨道が付いているのが分かるかと思う。
石槨前部の石組みも見事なもの。
上野丘陵周辺古墳の石組みなどを作ったのは一体どのような人々だったのか、熊野摩崖仏や臼杵石仏、岩戸寺国東塔、院内の石橋、隧道掘削工事等々へと繋がる豊後石工集団の祖かもしれないw、などという妄想をするだけで民俗研究者の飯は進む♪
同時期で同系の横口式石槨には有名どころが多く、壁画で知られる奈良県明日香村の高松塚古墳やキトラ古墳などは古墳好きならずとも耳にしたことはあるだろう。
三段築成の八角墳かつその白さで、近年話題となっている牽牛子塚古墳も同形式。
大分君恵尺(おほきだのきみえさか)とは
この横口式石槨は畿内の大坂・奈良をはじめ中国地方の広島・島根・鳥取に見られるが、どうして大分の地に畿内式とも言える横口式石槨を持つ古宮古墳が作られたのかは一つの疑問となる。
此処で鍵となるのが、被葬者に推定されている大分君恵尺(おほきだのきみえさか)という人物。
672年、天智天皇の太子・大友皇子に対して皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げ、反乱者である大海人皇子側の勝利に終わるという古代史上最大の内乱とされる壬申の乱が起きる。
この際に活躍した者の中に、大分君恵尺、大分君稚臣(おおきだのきみわかみ)という人名が出てくる。
後談として日本書記には、『大分君恵尺の病が重くなると、天皇(天武天皇)は大いに驚かれて詔し、「恵尺よ、お前は滅私奉公して身命を惜しまず、雄々しい心で壬申の乱に勲功を立てた。自分はいつもお前の努力に報いたいと思っていた。お前がもし死んだとしても、子孫に手厚く賞を与えよう」といわれ、外小紫の位に昇進した』と記されている。
畿内との密接な関係と横口式石槨の形式、そして没年及び古墳築造時期から恵尺が被葬者に推定されている。
ちなみに大分君稚臣は、滝尾百穴の近く大分市羽田の大分社に祀られている。
この大分社だが、稚臣と共に大分氏の始祖とされる豊門別命(景行天皇の皇子)も祭神であり、元は上野の地に鎮座していたり、豊後一之宮とされてたりと、古代から中世への大分の歴史と共に見ていくと興味深い物がある。
残念ながら参詣したことは無いので、「是非とも!」と思っている。
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