エノハ(榎葉魚)を江戸中期以降の文献から

スポンサーリンク
耳川エノハの剥製
耳川の宿にあるエノハの剥製

江戸中期頃の資料とエノハ
エノハ記載についてはもっと時間軸を遡ることはできますが、ここでは大分県内の市町村史及び江戸時代(1700~1750年頃)の文献からその姿を抜き出してみたい。

市町村の史誌にある記載

榎葉魚の資料にと大分県内の各市町村史を見た。主に魚類の項に鮎やカマツカやドンコ等と共に掲載されている物が多い。詳しい記載があるのは思ったよりも少なく、漁の方法などと一緒に記載がされている程度。

大分県立図書館所蔵の分のみで調べているので確認は大分県内分がメイン。天然の分布域と同じく日田、津江、玖珠、九重と飛んで宇目にはヤマメが掲載され、その他の地域ではアマゴとして記されている。

ただし一部ヤマメとアマゴの種的混淆や見られる表現もあったり、放流の問題点を指摘している箇所もみられた。

また、漁や釣りの方法を調べると注目すべき記載があったので、榎葉魚(エノハ)のカガシラ釣りにおいて別掲する。

和漢三才図会と諸国産物帳

江戸期当時でいう百科事典に榎葉魚の記載が見られる。

まずは大阪の医師寺島良安が1712年(正徳2年)に記したされる『和漢三才図会』(わかんさんさいずえ)。簡単に言えば絵入りの百科事典である。資料的に怪しい箇所も含んでおり評価も色々あるが、その紹介文がこちらである。

豊前豊後の国にはエノハ魚なるもの生息し、
好事家の食前に供せらる。形は榎の葉に似る故
かく名づく、甚だ美味なり

一方、江戸中期の本草学者であった丹羽正伯が編纂した博物書が『諸国産物帳』である。こちらはエノハと共にマダラの記載があり九州内の状況を知ることもできるものである。以下に抜粋しておく。

日向国(満だら)、肥後国(ゑの葉、まだら共申候)、
豊後国(ゑの葉、産物注書に川魚にて山川に四季共居、
五、六寸程にして背薄黒に満だら有之、腹白く尺におよび申候
筑前国(ます、ゑの葉は甚だまれなり)

諸国産物帳にてエノハ関連記載の元本となったものに、肥後細川家に所蔵されていた「豊後国之内熊本領産物帳」と「肥後国之内熊本領産物帳」がある。地方に伝わった古い淡水魚名を中心に紹介しているのでそちらもご覧いただきたい。

下毛郡誌と太宰管内志に見られるエノハ

まず目にとまったのが大分県内の山国川水系方面での資料。英彦山周辺を源頭とし中津平野から周防灘に注ぐこの川。その中上流部には耶馬溪や青の洞門などの観光地があり、特に紅葉期の美しさで名が知られている。

旧山国、耶馬溪、本耶馬溪町と三光村の地方を記した書物に「下毛郡誌」(編大分県下毛郡教育界、昭和47年11月25日発行)がある。この815頁には、年魚という魚とともに『榎葉魚』の記述が見られるのであげておく。

榎葉魚
山国川の上流津民川などに多く、毛谷村辺にも多く生息。その味・香鮎に劣らず

この下毛郡誌の引用元とされる『太宰管内志』の記述を見てみよう。

榎葉魚
鯖の形に似たり、大小あり、一尺四寸なるは大なり、たまさかには三尺に及ぶものあり、其味鮎より淡し、木蔭を流るゝ川にすむ魚なり、木の葉などを取て喰ふものなりと云、常足いまだ此魚を見ず

さて、この『太宰管内志』は、福岡県鞍手郡鞍手町(くらてまち)の古物神社の神主家に生まれた伊藤常足(イトウツネタリ・1774~1857)の筆によるもので全八十二巻。九州全域から壱岐、対馬まで網羅した地誌。37年の歳月をかけて著し、68歳の時に筑前黒田藩主に献上。江戸時代の九州を窺がい知ることができる一級の史料として有名。

常足は魚沖(なおき)とも称し、福岡黒田藩の人。亀井南冥や国学者青柳種信に師事し生涯学究の徒であったといわれている。『太宰管内志』の他にも『百社起源』『古寺徴』『長門雑記』等著書多数。その家は「伊藤常足旧宅」として福岡県指定有形文化財。

太宰管内志からエノハを考察

この書は江戸時代の後期の書籍だが、記述の段階で著者の常足はエノハを見ていないため聞き書きと考えられる。

まず、鯖の形に似ていると言うのが気にかかるが、降海型のサクラマス・サツキマスの形はそう云えるかも知れないし、パーマークや黒点といった特徴をとらえたものかもしれない。明治期に「河青魚」という表記で「かわさば」と読ませる魚が存在し、その絵はヤマメそのもの。

さて、釣り人として気になるのがサイズと食性だろう。

サイズの点では、まぁ三尺というのは大きすぎる気はするが、釣り人の話ならだんだんと大きくなるのは分からなくもない、もしかしたらそんなサイズのエノハが居たのか…という期待(夢)も捨てたくはない。その上サツキが居たのかもなんて妄想まで膨らましそうだ。ただ同じ系統の魚という認識などが問題にはなる。とりあえずマス化は考えないでエノハに絞るけれど、1尺4寸はとにかく大きい。約42cmなのですが、そんなサイズがゴロゴロしていたのか?と思える。なにせ、特大ではないのだから(笑!)。

次に食性の点についても、腹を割いたときに川虫や魚以外にも木の葉が入っていることもあるし、木の葉が水面に落ちたときに飛び出してくる習性を言ったものかもしれない。生息地などの記述がないところは非常に残念。

とにかくエノハを榎葉魚として記述している貴重な史料であり、榎葉魚学の特級資料(笑!)として評価しておく。

江戸中期までのエノハ史料

正直なところ太宰管内志に記述があったことは嬉しさと驚きがありました。

しっかり読んでなかったということでで、九州の各地誌・地史を丁寧に洗い出さなければいけませんね。
榎葉魚自体を取り扱った文献には今のところ出会っておりません。折に触れて調査を進めています♪

最後に今後の焦点及び問題点となるべき点が2つ残されていることを指摘しておきます。

本文中ではさらっと流してますが、まずは「河青魚(かわさば)」で、昨今言われるヤマメとイワナの交雑種以前からあった単語のようで、もう一つが「筑前国のます、ゑの葉は甚だまれなり」という文章。今後の課題として追跡調査していきます。

エノハ(榎葉魚)学詳説

民話・昔話・伝説の世界と史料に見られるエノハ(榎葉魚)の姿から、九州におけるエノハの歴史と民俗を紐解きます。魚類学ではなく、歴史や民俗からエノハそして九州を追求することがテーマ。

  1.  民話から見るエノハの由来譚と特徴
  2.  文献資料から見えるエノハ(榎葉魚)の姿 江戸中期以降
  3.  福岡県矢部村の民話からみるエノハと後日譚
  4.  カガシラとエノハ テンカラ・フライ以前の毛ばり釣り

関連するような口伝、史料、情報がございましたらご教示いただけますと幸いです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました