タキタロウ考 其弐 諸証言と事例を時間軸に並べると見えるもの

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タキタロウ考 其弐

大鳥池の巨大魚タキタロウの諸特徴、捕獲・目撃事例、関連史資料を時系列に並べると、混乱していたものがかなりすっきりしてきた。
これでやっと次段以降で大鳥池に関する伝説の考察に進めると一安心w

本論に入るまで大変だったというか、結局整理がついてなかったんだろうなぁと♪

※山形県の伝承や民俗調査とあわせて大鳥池に赴きたいとは思っているが、現時点では未探訪。
※ここでは、大鳥池の巨大魚や未確認生物(UMA)とも言われているものはタキタロウ、『両羽博物図譜』に記されている魚は瀧太郎と表記する。

タキタロウを巡る証言

旧朝日村村長の佐藤征勝氏と加茂水族館長村上龍男氏が丁寧にタキタロウについてを語ってくれている。
youtubeのおかげか、特集番組などでなく奇妙な編集もなく貴重な証言に方言を含めての動画が残されるのは民俗学徒としても大変有難く、感謝しかない。

どちらもタキタロウに関する重要な証言なので動画をじっくりご覧いただきたいが、忙しい方や今後の資料としても使用可能にするため内容の一部をリスト化しておいた。

タキタロウ伝説を語る佐藤征勝氏

佐藤征勝氏は東京生まれで、幼い時に戦争の疎開先として親と共に大鳥へ移住、父義三郎氏が旅館朝日屋を開業し大鳥小屋(タキタロウ山荘)の管理も行う。
朝日村の議員、村長、合併後の鶴岡市議会議員を経て、朝日屋の営業とタキタロウ山荘の山小屋管理を行う。

1982年に目撃した巨大魚とその後の調査にタキタロウの特徴など貴重な情報が語られています。
大鳥てんごには「昭和・平成の写真から振り返る大鳥池、タキタロウ山荘と水門のドラマ」も掲載されている。

この映像の内容から特に重要と思われた箇所を書き出しておく、ただ方言など弱冠聞き取り辛い部分等もあるので、できるだけ意味が通るよう標準語で記しておいた。

  • 100年から200年近く前からタキタロウを捕まえたというのは何人も居た、地元の人はタキタロウが居ると云うのは普通に思っていた。
  • タキタロウについて大鳥の地域に伝わっていたのは、生きた魚を喰う、警戒心がすごく強い、冷水を好む、美味である。ヌルヌルが強いのは冷温に対するためとも。
  • メスは大人しいが、オスは凄い顔をしている。(調査で捕まえた80cmのタキタロウを食して)産卵が終わっていれば美味くはないのだがこれは本当に美味かった。
  • 今水門があるところは昔は遠浅で、タキタロウが産卵(寒露の頃、霰が振るような荒れた日を選ぶと。警戒心が高いからだろうと)に来ていた思われる1.6mのを捕まえた。

上の動画は「いつでも自然がそばにいる」というブログ運営の方によるもので、記事の『大鳥池のタキタロウ 【釣り タキタロウ(仮)編】』にて大鳥池で釣った見事な魚体も掲載されておりました♪

タキタロウの伝説を語る村上龍男氏

クラゲで有名な加茂水族館名誉長館長村上龍男氏が大鳥池のタキタロウを語ってくれている。

  • 1970年頃か、大鳥池に船で出てイワナを毎日800匹は釣っていた人が居た。1ケ月位籠って米や味噌が無くなると麓に居りてイワナと交換してた。
  • 昭和の初め頃か、大鳥池に水門を作る工事が行われたが、始めると巨大な魚が寄ってきて困ったので警察にも知らせた。ダイナマイトで捕獲して軒先から吊るすと五尺くらいだったか。
  • 子どもの頃は伝説で七尺なんてのも聞いた。捕えようとすると雲を呼び嵐を巻き起こして洪水を起こして田畑の被害が酷いから獲ってはいけない、とは言いながらも杭でぶん殴って捕まえたなんてのも居たそうだ。
  • 避難小屋の工事の際に1mクラスの魚影を、現場監督が見たと。
  • 船でヒメマスを釣っていったら尻尾が団扇くらいある魚が追いかけてきたと。

※以下、浪漫派には注意が必要な証言を記述^^

  • イワナは小さいが、それを喰ってる少しのイワナだけが大きくなるのがタキタロウだと。これを釣りキチ三平に友人が投書した♪
  • タキタロウが居るとしたら稚魚・子どもが居るはずだが、居ないんだな一匹も。
  • 朝日村が鶴岡市と合併する前だけれど、支流でタモを使って70cmくらいのが取れた時に、見に来てくれと言われたが「それはイワナだから私は行かないよ」と、でもイワナと云ったら面白くないから、「これはイワナだけどタキタロウは別にいる」とすればいいのでは?と勧めたんだと。
  • タキタロウの特徴(顎がしゃくれあがっている等)は明治よりずっと後なんだが、捕れたものをバケツで持って降りて池に飼っていたものがそういう特徴をもっていた。それまでは言われてなかったのが、タキタロウはこういうものだと始まったと。

タキタロウの事例を時間軸の中で捉える

各種記事・資料及びwiki等に加え上記の貴重な証言を参考に、タキタロウの諸事例を時系列に並べてみた。

不本意ではあるが、大鳥池周辺でのフィールドワーク及び市町村史他の史資料類に触れることができていないものも多いのは今後の課題でもあるため、その他タキタロウに関連すると思われる郷土史資料、事例などあれば教えていただきたい♪

2万年以上前か?
 山体崩壊により東大鳥川が堰き止められ大鳥池ができる。
 
700年頃か
「1丈2尺(約4.2メートル)程の大きな白い鳥が池の方へ飛び行基を導き龍王と出会ったことが大鳥池の由来」又「それを追うようにして大きな魚が沢を上って行った」等と伝えられている。
※行基は668年~749年の人物なので、一応伝説の時間はこれにあわせておく。

1762年(宝暦12年)頃
 進藤重記により「出羽国風土略記」が記される。
 巻一から四まで田川郡が記されているが、タキタロウの記述無し。

1800年頃か
 佐藤征勝氏の証言(100~200年前から居たと云う)によれば、地元の人にはこの頃からタキタロウを捕獲した話があるという。

1840~1880年(天保11年~明治13年)頃
 幕末には松山藩家老を務めた松森胤保による「両羽博物図譜」が記される。
 同書にて「大物ヲ瀧太郎ト云五尺計ノモノ大鳥川ヨリ流レ来ルコト有ト聞ク」とタキタロウ関連と思われる記載は有るが、岩名に分類されている。

1880~1884年(明治13年~明治17年)頃
 出羽国風土記巻の1に大鳥館及び大鳥紀行の項があり大鳥池の名はあるがタキタロウに関する記述無。
 この「大鳥紀行」は1880年(明治13年)に氏家浄閑氏によるものだが、村人の引き止めで大鳥池には行かず荒沢上流で遊んだ後に西の峠を越えて関川、小国方面へと周遊した記録となっている。

1883~1890年(明治16年~明治23年)頃
 1883年の渇水を契機に、水源涵養・伐採状況確認のため赤川筋水利土功会による調査が実施、『大鳥湖調査紀行』として報告。

1898年~1914年(明治31年~大正3年)頃
 関原東田川郡郡長たちが数万匹のヒメマスを放流したとされる。
 当時の記録にタキタロウの目撃情報は無し。

1907年(明治40年)
 中村熈静氏が大鳥池の探訪記(『地学雑誌/20 巻』 (1908) 12 号)を記すもタキタロウの記載無。
 「渓流は三角澤(砥石を産出す)、西の澤、中の澤(鑛脈露頭)及東の澤の四澤にして、《中略》池中にはイワナ多く産し」等とのみ記される。

1908年(明治41年)
 山形県が編集出版した「山形縣名勝誌」に大鳥池の名前は見えるが、タキタロウに関する記述は無い。

1910~1990年(明治43年~平成2年)頃か
 この期間を中心とした十数年おきに何度かタキタロウと思われる怪魚が捕獲され、魚影の報告もある。

1910年(明治43年)
 大鳥池の水門工事中にダイナマイトを爆破させたところ、人間の背丈ほどの魚が浮いてきたのが目撃される。

1917年(大正6年)
 水門工事の際のダイナマイトによる爆破作業の際、2匹の大型魚(約1.6mとも)が浮かび上った。
 2名の作業員が持ち帰り4日間かけて食べたという話が伝わる。
 また、水門調査員2人が体長1.5メートル、重さ約40キロの巨魚2尾を投網で捕獲。
 水門工事作業員約20人の4日分の食料となったとも伝わる。
※下記の話と大凡類似、wikiにも記載だが記事化などの際に誤解や誤記のあった可能性もある。
 工事自体は昭和9年のようなので、明治から大正期の工事とは事前調査やその他地形調査等での関連として考えるべきだろう。

1932年(昭和7年)頃 
 昭和8か9年頃とも伝わる。
 旧鶴岡市小淀川の工藤栄一氏が友人と2人で投網(実はダイナマイトとも伝わる)で160cmのものを2体捕えたという。
 吊るしておくと一日中粘膜が流れ落ちたとも。
 『大江町の警察の署長が新聞に書いてたんだっけ。その人が若い頃、鶴岡にいたのかどっかの駐在所にいたかよくわからねぇけども、工事を始めると池が荒れるもんだからって。その、ヌシっていうかなんていうか。して、ダイナマイトかけるってことで警察が立ち合わないとダメだってことで自分が立ち合ったんだと。そしてダイナマイトかけたば、それこそタキタロウと思われ、魚が浮かんで。それからあと、嵐にならなくなったってことが書いてあった。警察の署長が書いたんだぜ。それは水門ができる前だろうから、昭和6年だか7年くらいの話かな』~大鳥てんご 佐藤征勝氏の話より~

1934年(昭和9年)
 湖水を灌漑用水として利用するため、大鳥池の排出口に制水門が設置される(現庄内赤川土地改良区)。
※1932年の事例はこれにかかる工事かと、大正期の工事は不明だが調査関連と思われる。

1939年(昭和14年)
 水門作業員が産卵中の巨大魚発見。2尾の内の1尾を捕獲。
 サイズは約70cmで、口が裂け、牙があったと。

1957年(昭和29年)
 10月24日、旧鶴岡市阿部祐治氏(赤川土地改良区連合)が東沢河口から100mほど上流の滝壺で80cmを捕獲。

1959年(昭和34年)
 上野益三氏らによる山形県大鳥池の調査、報告書の発行。
 タキタロウの記載は見られない。

1965年(昭和40年)
 10月20日、地元の大滝貞吉、三浦義久、三浦豊勝の三氏が中ノ沢入口から約100m上流の滝下で二匹を捕獲、60cmの雄と70cmの雌であった。
 この70cmの雌の魚拓が各種媒体でも取り上げられている有名な物。

1965年(昭和40年)前後
 朝日屋の佐藤義三郎氏が西沢で80cmのものを筆頭にして他にも三匹を捕えたという。

1969年(昭和44年)
 9月15日、地元の工藤与一氏が中ノ沢からすぐ近く東沢の沢口付近にて40cmを捕獲。
 タキタロウ館で標本となっているものである。

1975年(昭和50年)
 矢口高雄が漫画『釣りキチ三平』の中で「O池の滝太郎」と紹介する。

1982年(昭和57年)
 旅館・朝日屋の主人らが山中から小魚の群れを追う2mほどの巨大魚を目撃した。
 以東岳登山に参加した地質学者や村役場などのグループ4名が、大鳥池の湖面に全長3~4mの巨大な魚の群れを発見とも。
※一部話が膨れたりするのは口伝や伝承の特徴、スポーツ新聞等にもこれは見られる♪

1983年(昭和58年)
 地質学などの専門家や朝日村、NHK水中撮影班らを交えて結成した大鳥池調査団(五百沢智也団長)による調査が3年間実施。
 また10月21日には、山形放送のカメラマンが湖面で弧を描く巨大魚をビデオで撮影成功。

1985年(昭和60年)
 体長約80センチメートルの大型魚が捕獲。
 鑑定結果は「アメマス系のニッコウイワナ」と「オショロコマに近いアメマス」とのこと。
 この魚の剥製は、鶴岡市大鳥地区にあるタキタロウ館で展示されている。
 ただし、サイズが小さいため捕獲されたのはタキタロウではなく、本物のタキタロウは別にいるとの見方も。

1989年(平成元年)頃か
 タキタロウ小屋改修工事の際に現場監督が近寄ってくる1m程の魚影を見たと。

2001年(平成13年)
 72センチメートルのタキタロウとされる魚が釣り上げられる。
 ただしこれ以降、目撃情報はないという。

2014年(平成26年)
 大鳥地域づくり協議会(工藤悦夫会長)ら14人がタキタロウ調査を実施。
 水深25~54メートルの地点で1日に6回以上、1匹から数匹の魚影を探知することに成功。
 慶應義塾大学の伊藤卓朗博士が池の性質を調査し、深い水域でも魚が生きるのに十分な酸素濃度があることが判明。
※この『タキタロウ調査2014』の報告書は、山形 鶴岡 大鳥てんごの該当頁にてダウンロードできますので、タキタロウに興味を持った方は上記リンクからご入手ください。

※各タキタロウ捕獲情報の内、特に戦前の水門工事にかかる事例は大きさや前後の状況等が錯綜しているため注意が必要かと思う。赤川筋水利土功会による『大鳥湖調査紀行』の内容を確認することで当時(明治末から大正初期の調査と開発)の状況がかなり見えてくると思う。
※この『大鳥湖調査紀行』が見つからず現在捜索中、無念。水利組合に聞くしかないのかもしれないと…。

タキタロウ諸事例を時間軸から考える

子どもの頃に「これがタキタロウか!!」と驚かされたのが定番とも言える下の魚拓写真。

タキタロウの魚拓
タキタロウ館にある魚拓、画像は「未知の細道 伝説の巨大魚タキタロウを追って」より

UMA関連としてムーでみたのかその他の雑誌で見たのか記憶ははっきりしないが、当時はかなり古そうに思えたこの魚拓(一応最古なのかな?)も実は昭和40年代だったりする。
個人毎ではかなり古く感じる世代もあるだろうけれど、歴史研究だとほぼ昨日的な感覚♪

ではタキタロウの初出は? と云うと、佐藤氏の証言(100~200年前頃から捕獲譚有)による1800年頃からとされる捕獲伝承のみとなり、実態を伴うと言えそうなのは1910~1990年(明治43年~平成2年)頃に魚影確認や魚体が捕獲されていることとなる。

史料からは松森胤保による「両羽博物図譜」にある瀧太郎が見えるものの、これは直接的にタキタロウとは言えるものではない。
※別段で詳細に検討。

巨大魚と貧栄養湖

1959年(昭和34年)の上野益三氏の報告にもある通り大鳥池は貧栄養湖の見本とも言えそうな場所であり、幾例かの報告にもあるように捕れるイワナも痩せているものばかりだとされる。
1910年頃から巨大魚が確認されるのだが、そのような場所で1.5mを超えてくるような魚が育つのだろうかという疑問は拭えない。

しかし1898年~1914年(明治31年~大正3年)頃にヒメマスの放流(その数量は不明であるが^^)が行われたことがこれに対する一つの回答ではないだろうか。

youtubeにある村上氏の「イワナを喰ったイワナが大きくなる」という言葉もその裏付けであり、人間によってヒメマスという餌が一気に増えたことでタキタロウもより巨大化し得たのであり、これが1910年からの巨大魚捕獲に繋がったのではと推測する。

そうなると戦後に1.5m以上の個体や近年に巨大なタキタロウの捕獲事例がないことは単に「餌不足」、つまり餌の放流量が少ないからと言えるかもしれない。

大鳥池にはイワナしか生息していなかった?という疑問

タキタロウに注目しすぎて今までに気づいていなかった大鳥池の疑問が発生した、「この池にはイワナしかいない?」。

これは1959年(昭和34年)の上野益三氏の報告書にも明らかなようにイワナとヒメマス(放流)しか発見できておらず、アブラハヤ類やヤマメなどは生息していないということである。
東北地方の魚類相に関しては詳しく無いが、大鳥池の標高は966mであり西日本で渓流釣りを愛好している自分にすれば意外な気がする。

可能性としてはイワナ自体も放流によるものであったかもしれないと言えるのではないだろうか。

そうなるとタキタロウも別種などではなく、ただの移植イワナの後裔となるのだが…。

人為的巨大化の可能性

大鳥池は不入の地であるとされるが、江戸末期のイワナ漁、三角沢の砥石と中ノ沢の露出鉱脈(1907年中村熈静氏の大鳥池の探訪記による)を見ると、単純に人が入らない場所ではなかった部分もある事が分かるかと思う。
周辺山岳部には西大鳥川の大泉鉱山をはじめとした各種鉱脈も多く、明治期は開発の為より多くの人が山域に踏み込んだようだ。
明治初期には大泉地区にて硯を多く産出した等の史料もこれらを裏付ける。

1800年代末頃の調査・開発とヒメマス放流以降の1910年からタキタロウが本格的に発見されたこととは偶然ではないかもしれない。

タキタロウはイワナの突然変異という考え方も、調査・開発によりイワナがある種の人為的巨大化もしくは奇形となったのでは?という推測から裏付けができるかもしれないと思う。

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