吉弘神社 石垣原合戦の英霊(吉弘統幸公)を祀る地に残る巨石と墓碑

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吉弘神社 統幸伝説と巨石

吉弘神社は別府市鶴見の実相寺グラウンド東側にあり、祀られているのは吉弘統幸公。
吉弘氏の本拠地でもあった国東半島の関係者や神社周辺の地元民には吉弘嘉兵衛の方が通りが良いかもしれない。

天下分け目の関ヶ原の戦と同時期、豊後返り咲きを狙い西軍に加担した大友吉統(宗麟の息子)の挙兵に応じた統幸が石垣原合戦にて亡くなり、後にこの場所に祀られたのが吉弘神社の発祥。

とまぁ大友氏の終焉でもある合戦自体にも興味はすごくあるのだけれども、本殿そばにある御神石と呼ばれる巨石と墓碑に下馬の松など色々の伝承が残されていたりと興味は尽きない場所でもあるわけで♪

個人的にも所縁があるため、ここ数年は初詣を欠かさない神社でもある。

吉弘神社の概要 その位置と行程

吉弘神社拝殿

社 名 吉弘神社
祭 神 吉弘統幸
住 所 〒874-0910 大分県別府市石垣西6-6-19
問合先 0977-24-6636
駐車場 拝殿東側(吉弘児童公園側)に数台可能
行 程 別府駅より車で約10分

吉弘神社の概要

慶長五(1600)年9月13日、豊後国速見郡石垣原(現大分県別府市石垣周辺)にて西軍石田三成に組して挙兵した大友義統と東軍黒田如水との戦が行われた、これは天下分け目と言われる関ケ原合戦の二日前の事。

吉弘統幸はこの戦いにて奮戦するも、「明日は誰が 草の屍や照らすらん 石垣原の今日の月影」と辞世の歌を残し戦死、この時の激戦は福岡藩主黒田家による『黒田家譜』ではその詳細と共に記され、「吉弘統幸がごとき真の義士は、古今たぐいすくなき事なり」と評している。

吉弘統幸 宝泉寺蔵
吉弘統幸 宝泉寺蔵 「べっぷの文化財 No.44 -石垣原合戦-」)

後に臨済宗・太平山宝泉寺の住職と村人により、墓碑と一株の松を墓の側に植え位牌を寺に安置、手厚くその菩提を弔ってきた。
大正十一(1922)年には地域の人々により、墓所の前に一間社流造本殿と入母屋造裳階付拝殿が建立され吉弘神社と名付けられ、慶長五年より四百年の記念事業として平成十三(2001)年四月に拝殿が建て替えられた。

吉弘神社の位置

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別府市の九州横断道路鶴高通り交差点(九州マツダ 別府店傍)から南方向へおよそ800m程、実相寺のグラウンド方面からは緑丘通りを下った交差点のすぐ北側あたり。
鶴高通りに面しても駐車場はあるが狭い、神社東にある吉弘児童公園側へと迂回して駐車するのが良いだろう。

吉弘神社内に残る墓碑や巨石と統幸に纏わる伝説

吉弘神社へ参拝に訪れると、駐車場から本殿へ向かう左手に手水鉢が置かれている。
ここに彫られている家紋は杏葉(ぎょうよう)紋で、「抱き花杏葉」、「大友花杏葉」とも呼ばれるもの。

手水鉢 花杏葉紋入り

この杏葉紋は大友氏の家紋でもあるのだけれど、田原氏、託摩氏、志賀氏などのいわゆる大友三大支族他の大友氏の血が流れる氏族、まぁ同紋衆と呼ぶのだけど、田原氏の分家である吉弘氏も同紋衆であり杏葉紋の使用を許されていた。
で、大友家臣団の中で有力であった佐伯氏、雄城氏、小原氏などの大神系氏族などは、他紋衆であり杏葉紋は使えなかった。

ちなみに戦国ゲームなどでも登場する臼杵鑑速や戸次鑑連などの氏族も元は大神氏系だったけれど途中で大友氏の血が入ったので同紋衆となっている^^
江戸期に残った立花氏も元は大友氏で「柳川守」の家紋が良く知られているが、「立花扇」や「立花杏葉」も使用していた。

詳しい人は「鍋島杏葉」も知っているかと思うがこれは鍋島氏が大友氏から使用を許されたというものではなく、鍋島直茂が今山合戦に勝利しそれまでの剣花菱紋から大友氏の杏葉紋を自家の紋としたとされるもの、合戦の詳細は記さないもののまぁ分捕られるにふさわしい負けっぷり(総大将が打ち取られるという)wwwだったわけで。

とまぁ、杏葉紋についてはこれくらいで^^ 拝殿へとお参りに向かおう。

平成十三(2001)年に改築され、お世話も頻繁に行われているのを窺わせ美しく感じられた。

拝殿に向かって左手に社務所、常時人が居るわけではない模様。
ただ何度目の訪問時には人が居り、少し話を伺うことができたのは有難かった。

お参りを終えた後、本殿の裏側にある墓石群へと歩を進めてみる。

下馬の松

拝殿と社務所の間から奥へ本殿裏へと向かうと、丁度社務所の横手に一本の松が見えてくる。

下馬の松 吉弘神社

これは統幸公の忠節を後世に伝えるために熊本城主細川公により植えられたものと伝わり、年を経て老松が枝を垂れ、往来の旅人や参勤の諸公がその場を馬で乗り越せば必ず落馬の祟りがあったことから「下馬の松」と呼ばれた。

ただ残念なことに明治初年に心なき者が伐採した由、現在の松は大分県知事田中千里(当時)により植えられた二代目の松。
大阪府知事林市蔵による「代から代へ 緑伝えよ下馬の松」の句が刻まれた石碑が置かれている。

ただ、後述する『武者物語』を読むと「心ある侍は拝して通る」とあるのみで落馬の祟りについては記されていない。
詳細は不明だが、記述以降(1600年代中頃)松の成長と共に祟りが伝承として付された可能性を考えている。

吉弘神社の巨石、御神石

「下馬の松」から奥へと向かえば、「御神石」と呼ばれる巨石が迎えてくれる。

御神石

特段伝承を聞いてはいないけれど、手を触れるとご利益があると言われている。

これは別府市荘園の七ツ石にある巨石に触れるとご利益(触れた手で悪いところを触ると良くなる等)があると同様のもの、七ツ石については別に取り上げているので、興味のある方はこちらも♪

御神石と七ツ石の両方に吉弘統幸が絡んでいるけれど、これは巨石に対する畏怖心や超常性からが根っこにあったのだろうかと思う。
元からこれらの巨石に対する何かがあり統幸が契機となったのかなど、他にも幾つか考えられそうな事はあるけれども、合戦以前の伝承が見えないために正確な事は言えない。

一方で御神石には超常性以外にもう一つの意味を持たされていたようだ。

吉弘神社直ぐの西の鶴高通りは、現在でも石垣と鶴見の境界線を成しており古くは小倉街道と呼ばれ、現在では国道10号線にあたる主要な道筋でもあった。

当時の道は御神石と次段で触れる統幸の墓碑の間がそれにあたるものだったとうかがっており、御神石は境界石であったことを窺わせる。
詳細な行程は省くが、ここから北へ進めば実相寺古墳群の南側を通り春木川を渡りあの大石へと至る。

道祖神系の石造物やしめ縄が張られたり等の事例からも境界に意味が持たされることは知られており、海道のあった中世以前からこの御神石は機能していただろうし、後述する統幸の墓碑も境界故に安置された意味が強かったのではないだろうか。

巨石と賽銭箱
お賽銭を入れて御神石の御利益を♪

府内を出発する旧小倉街道には順に、銭瓶峠のかんかん石、吉弘神社の御神石、大石の大石と別府市内に道しるべ兼境界石が今に残り伝わる点が非常に興味深く、他にも石造物やご利益のある祠などもあるので機会をみて紹介したい♪

吉弘統幸の墓碑

御神石のさらに奥かつ吉弘神社本殿の裏には旧小倉街道の跡が残る。
すぐ左に見える石段を上れば統幸の墓碑が安置されている。

旧小倉街道の跡

板碑風の墓碑であるが、刻銘は確認できない。

吉弘統幸の墓標と伝わる

この隣には石殿も置かれており、統幸の次男正久が仕えた細川氏の建立によるといい、屋根の部分に吉弘氏と細川氏の家紋が刻まれている。

往時の様子を窺う上で参考となるものに、豊後森藩8代目藩主久留島伊予守通嘉(1787-1846)が作成させた『鶴見七湯廼記(弘化2(1845) 年)』がある。

「吉弘統幸古墳」『鶴見七湯廼記』 大分県立歴史博物館蔵
「吉弘統幸古墳」『鶴見七湯廼記』(大分県立歴史博物館蔵。「べっぷの文化財 No.44 -石垣原合戦-」)

貴重な画像からも小倉街道沿いに石垣と石殿と墓碑そして周辺状況の確認ができ、神社建築以前の様子が分かると思う。

吉弘統幸の墓碑については『武者物語(1656年頃)』に、「心ある侍は拝して通る」と下馬の松に関わる話や瘧(おこり=悪寒、発熱が、隔日または毎日時を定めておこる病気。マラリア性の熱病とされる。)を治す効験があったと。
ただ供え物のため(米を供えたため鳥が集まって…)に墓所が見苦しいことから、「加兵衛子供是聞て別符にゆき…」と潮ごりのみで治すようになったとの後日譚が記されている。

ただその前段に、「其後処の者石垣原の近処別符といふ処の濱に石塔をたてて…」という記述もあり、潮ごり(海で身を清める)との関連から別の箇所に石塔があったのではという点もは少し気になるところ。

周辺地名

峠地名を追いかけている現状ゆえ、やはり周辺の地名も少しく気になる処。
そこで農業集落境界データセットで確認すると、吉弘神社のある石垣西六丁目あたりは千疋、石垣西四丁目あたりは吉弘の旧地名が残っている。
※「千疋」は家名にもあったりするし、地名に関しては「タタラが…」とか「千疋狼が…」などとあり面白い伝承もあるのだが、ここでは割愛><

この吉弘の地名は統幸及びこの墓碑設置以降と考えてよいだろうし、江戸初期から戦前辺りまで周辺地域での尊崇の念が感じられるものだ、ただし残念ながらこの地名は人々の間からも消えつつある。
タキタロウなどでも少し触れたように伝承は上書きされる(柳田の言う妖怪は神が零落したものを地で行く現代的好例かと♪)ことがあり、地名も同様で、「吉弘」以前にはまた別の地名があったことが理解され得るかと思う。

上書きされ消えることは残念ではあるがそれも人の営みであり、「吉弘」が今は「石垣西」となったように地名が消えること自体は残念だが致し方ないこと。
まぁ歴史を見ていく上では面倒な事にはなるんだけども♪

吉弘神社のまとめとして

今回は吉弘神社という事で、あえて石垣原合戦の詳細と史跡、統幸の人となりなどはほとんど触れていないので、これらはタイミングがあれば是非とも記事にしたいと思っている。

神社の各伝承については、今後の史料及び研究報告の精査や野外調査などを進めていけばより見えてくるかもしれない。

統幸墓標の入り口

最近ではどのような話になっているかは知らないが、吉弘神社すぐ北にルミエールの丘という住宅地があり、この周辺で「彷徨う武者の霊」を見るという心霊譚をご存じの方も多いだろう。

神社に直接関係がある話ではないけれど石垣原合戦に絡んだ話のように思われるし、統幸の無念を思った人々の思いが収斂されたかもしれないなどと想像を巡らせることはできそうだ。

なんだか各項目で気になった事をツラツラと記したせいで纏まってないけれど、これも何時もの通りかとwww

戦国期及び大友系武将に興味のある方には、一度は足を延ばしてほしい場所なので是非ご参詣を^^

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