大石の大石(別府市桜ケ丘) 旧三町村(石垣村、朝日村、亀川町)の境界石

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別府市桜ケ丘の大石

今回紹介したい大石のある場所は大分県別府市桜ケ丘、最寄りのバス停は「大石・大分香りの博物館」と場所名にもなっている。

九州横断道路沿い「亀正くるくる寿司」と「別府甘味茶屋」の北側を走る道沿い一軒の敷地跡にあるのだが、車で通り過ぎると住宅街にめり込んでいる上にその大きさもあってか、逆に気づかれないかもしれないと思ったりする。

元々は境界石であったようで以前の写真を見ると敷地内には家も在ったが、現在はブロック塀のみを残して更地である。

【大石の位置とルート】

別府市桜ケ丘の大石周辺地図
大石周辺の地図 国土地理院より

分かりやすいルートとしては「亀正くるくる寿司」西の交差点(湯の川口)から別府大学方面へ進み、鉄輪方面の道と合流してすぐに右折すると、すぐ左手に見えてくる。

駐車場は無いのでご注意を。

大石(おいし)の大石は村境を示した境界石

大石の高さは2.5m+αくらいかと♪、存在感としてはちょっとした納屋ほどの大きさに思えた。

大石を道路北側より
大石敷地内の様子
古い写真では家があったが、今はないので逆に奥が見えやすいかと。

グーグルストリートビューでも確認しておく^^
進んでいくと「ムン!」と視界に入ってくると思う。

参考とした「べっぷの文化財 No.32」には大石(おいし)の大石、石垣村、朝日村、亀川町(1920年中頃)の境界石であった模様だが、図面等はなかったので当時の町村境地図を用意してみた。
※地図画像作成には、ひなたGISを使用。元画像は『別府』五万分一地形圖、明治36年測量、昭和2年修正図、日本版 Map Wrapperより。

別府市旧町村境界 部分
地図① 1920年中頃当時の境界

地図①の石垣村の北端境界が亀川町と朝日村の境界へと延びる形になっているのが大石の位置で、行政的区分の変動を受けにくかったことが感じられる。

ちなみに石垣村は南石垣村、北石垣村、南立石村、東山村が、朝日村は鉄輪村、鶴見村が、亀川町は亀川村、野田村、内竈村がそれぞれ合併した町村名。
其後1935年(昭和10年)に、上記の3町村は別府市(当時は浜脇町と別府町が既に合併済)と合併し別府市となった。

地図①より以前及び江戸期は、南鉄輪村、平田村、北石垣村の動かぬ分岐点であったとされる。

大石周辺の比較地図
地図② 地図①を拡大して現在との比較

地図②の赤い丸点で大石の位置を示している、中須賀地区に見える神社は八幡石垣神社。
当時は中須賀から大石そして鉄輪に抜けるのが、地域の主要道であったろう事が分かると思う。

春木川沿いの境界周辺は田んぼが多く戦後の開発が一気に進んだのも見え、国道10号線から九州横断道路への入口がもっと北側で上人の砂湯あたりからだと、この石は壊されていたのでは? などと思う。

加藤翁の顕彰碑

大石の隣にあるこの顕彰碑は、明治維新後に南鉄輪村村長を務めた加藤新平氏が私費を投じて大石周辺の道路整備をしたもの。

大石が遺っていた価値

大分県内でも境界石として保存・現存しているものは幾つもあり、知っている限りではそのほとんどが江戸期以降のものが多いようだ。
この大石の表面を見た感じでは刻印などは無いようだし現時点では文献資料も見当たらないために何時頃からの境界石であったのかは不明だが、動かないし動かせなかったと想定すれば中世より以前にその始まりを求めても良いかもとは思う。

大石を道路南側より

ただし、自然災害でも動かない大きさかと云えばそこまでではないので、時間軸の遡行に関して言及するのは難しいのも確かで史料関係を探ってみたいところ。

以前はこの大石の天辺に大将軍の石殿があったと言われ、なんらかの信仰が関わっていたと考えてよいのだろうが今はない。
そこで、大将軍といえば大分県由布市の大将軍神社(だいじょうごんじんじゃ)が思い浮かぶ。

社名から戦等で功のあった人物関連(例:加藤清正とか)かと思いがちだが、実は陰陽道で方位の吉凶を司る八将神の一柱(元は金星にまつわる星神)であり、魔王天王とも呼ばれる大鬼神のこと、全国的に有名なのは京都市上京区にある大将軍(だいしょうぐん)八神社だろうか。

由布市の大将軍神社は古くから牛馬の神として交通・農耕の守護神として厚く崇敬されており、1月13日の大祭初日に開催された市は、大将軍市として、柞原八幡宮の浜の市、賀来神社の賀来の市とともに大分郡市の三大市として広く知られていたという。
ただ境内小社に加藤清正が合祀されているのはややこしい♪のだが、本来大将軍は牛頭天王の息子であり、素戔嗚尊と同一視(後に牛頭天王と素戔嗚尊は習合)されたりしている。

大石の大将軍祠と由布市の大将軍神社との関連は不明であるが、境界石の上に置かれていた事をみても牛馬を使った運搬及び交通安全の神であったと考えて良さそうだ。

境界と信仰でみると道祖神との関連を嗅ぎつけたくなるが、大分県内には道祖神は多いとは言えないし、大将軍祠に信仰的役割があることから大石自体に信仰的な要素は薄かったのかもしれない。
豊前・豊後の国境を中心に巨石を巡る信仰らしき遺構が点在している事に注目しているが、この大石に関しては自然石信仰が薄れてしまい信仰対象と云うよりも境界標柱の意味が強くなったと考えておきたい。

残念ながら由来や伝承等をあわせた踏み込んだ調査はできていない。
ただし大石の象る境界と地域神社の神輿経路、虫送り、道祖神・地蔵等の民俗事象と地域の歴史的な地域区分の変遷と小倉街道他当時の街道の関連を見ていくと面白そうだ。

大将軍の石殿があったり、バス停にも「大石」の名称が残る事、「大石(おいし)の大石」と紹介されていることをみると、以前は地域や通行者にかなり親しまれていたのだろう。

別府市指定文化財リストを見ても当然ながら指定外、まぁこういった巨石関連のものは指定されていない文化財ばかりだったりする。
この大石は個人宅の所有者がそのままにしているからそのままに遺っているのだろうしその民俗的な価値は非常に高いなぁと、ただ開発が進めば消えてしまう事は間違いないと思う。

大石関連の参考史資料等

べっぷの文化財 No.32 平成13(2001)年
別府市歴史散歩(一) 北石垣の西域コース 日名子洋一

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