太郎塚・次郎塚 国史跡 実相寺古墳群を成す2つの円墳

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太郎塚と次郎塚

太郎塚と次郎塚は大分県別府市北石垣で南北に並んで位置する円墳で、実相寺古墳群を形成する6世紀末~7世紀初頭に築造された古墳と推定されている。
「百合若大臣」の物語に登場する悪役、別府太郎・次郎兄弟の墓と伝える。

2013(平成25)年に県史跡の指定指定を受けたのち、2017年(平成29年)2月9日に史跡範囲を追加指定(鷹塚・天神畑古墳を併せ)の上、指定名称を「鬼ノ岩屋・実相寺古墳群」に変更して国史跡に指定された。

両古墳は実相寺古代遺跡公園内に現状保存されており、実相寺古墳群や周辺遺跡(春木芳元遺跡、縄文時代の集石遺構・十文字原第1遺跡)の石棺他も移設されている。

別府市の公式頁に国史跡『鬼ノ岩屋・実相寺古墳群』として掲載されているので参考にした。

太郎塚と次郎塚及び実相寺古墳群の位置と道のり

国道10号線から九州横断道路へと進み、ゆったりとした真直ぐな登り坂を行くと道なりに大きく右カーブとなり左手にうどん屋(大鳴門さん)が見えてくる、その左手前及び裏手一帯が実相寺古墳群となる。

太郎塚等 実相寺古墳群 位置図

太郎塚・次郎塚は実相寺古代遺跡公園内に現状保存されているので、ここでは公園への道のりを記しておく。

まず横断道路からうどん屋のすぐ前を左折(山側に上る)すれば、実相寺古代遺跡公園入口があるが、駐車場はうどん屋だったり私有地だったりするので要注意、入り口付近に直付けするしかないだろう。

もしくは、うどん屋を過ぎてすぐの実相寺北交差点を左折、新別府通りに入って又すぐ左折、すると左手に送電線鉄塔の奥に大きな交通安全の標柱が見え、その隣に入口がある。

太郎塚・次郎塚見学は迷惑にならない程度に遺跡公園に横付けできるが、実相寺古墳群の鷹塚と天神畑古墳(消失)は東(海)側になり私有地も絡むし、直近の駐車場も無いので見学には注意してほしい。

太郎塚・次郎塚周辺
google earth pro によって作成 西の扇山方面を望む形で♪

「これが国史跡?」やら「国史跡とは一体?」と思うかもしれないが、先行して指定されていた鬼の岩屋古墳の後付けだったり、後は予算の都合だろうw 宅地も迫っているのでスペースもない。

桜が散った頃に行ったために同行者から「タイミングがわりぃわぁ!!」と批難を浴びたが、確かに両塚を覆う程に桜の木々が枝を伸ばしていた。
古墳見学ってよりはレジャーシートとお弁当を持って、桜が満開の時期に穴場の花見スポットとして行くのがおススメかも♪

太郎塚古墳と次郎塚古墳と遺跡公園

実相寺古代遺跡公園として保存され、太郎塚と次郎塚を中心に整備されており東西に入口がある。
同サイズの塚ということもあってか地元や報告でも名称の混同はあったようだが、調査報告書では南側を太郎塚、北側を次郎塚としているのでこれに従う。

公園を西側の道から望む
太郎塚・次郎塚全景 公園西側の道路より

文化財・史跡情報

  • 古墳名 太郎塚古墳・次郎塚古墳
  • 場所 別府市大字北石垣字天神
  • 形状 円墳、周溝有
  • 規模 太郎塚、墳長径約 23.0m。次郎塚、墳長径約 24.0m。
  • 築造時期 6世紀末~7世紀初頭
  • 被葬者 不明
太郎塚・次郎塚 測量図
両古墳の測量図(報告書より)

両塚とも損傷は激しく、想定される墳長径はどちらも24m程だが現況は13m程で歪な形、石室関連の石材も露出している。

太郎塚古墳

公園の入口から入ると奥側になるのが太郎塚。

太郎塚
西南側からの太郎塚。奥に見えるのが次郎塚

次郎塚古墳の周溝が、太郎塚古墳の手前にとまっているので、太郎塚古墳が先に造られたと考えられている。

太郎塚
北東側からの太郎塚。なんとなく円墳だろうなと分かる♪

横穴式石室の天井石と入口付近の石材が露出しているのが分かるかと思う。

看板にもあるように傷みが激しく保護の観点からも塚には登らないのが正解ということ、年のせいで疲れるからではない、きっと♪

次郎塚古墳

次郎塚も石室石材が露出、こちらは墳丘裾の列石も見える。

次郎塚
東側からの次郎塚

次郎塚の埋葬施設は南東方向に入口をもつ横穴式石室とみられている。

次郎塚

金銅製唐草文透彫鏡板(県指定重要文化財)が出土しており、太郎塚出土ともされるが才神の報告では次郎塚周辺出土の模様。

写真から公園内に桜の木々が多いのが分かるだろう。
桜が散った直後の探訪という間の悪さを嘆くのみ。

実相寺古代遺跡公園内に散在する各種豊富な石材群

まずは公園と実相寺古墳群の各古墳群の位置を示しておく。

実相寺古代遺跡公園周辺図
太郎塚と次郎塚を南北にして、公園と古墳群の配置を見る

予備知識もないままに実相寺古代遺跡公園を訪れると、太郎塚と次郎塚だけでなく各種石材及び石棺も点在しているのが目につく。
しかし、どれが何かさっぱり分からないだろうw 確かに遺跡公園ではあるがね。

しかも、以前は縄文期の竪穴式住居も復元されていたらしく、時間軸も遺跡名も今よりも疑問符が頭に浮かんだはずだ。
まぁ、縄文期に古墳とはさすがに思わないかもだが…。

公園内の石材群
実相寺古代遺跡公園内の様子。どれが何か説明する気も失せるw

これらは宅地建設の為に消失した同古墳群天神畑古墳の石棺や石材だけでなく、戦後この周辺で発見された2基の石棺(実相寺1号石棺・2号石棺)、公園より北に300mほどにあった春木芳元遺跡出土の石棺に十文字原第1遺跡の縄文時代の集石遺構等とのこと。

天神畑古墳説明版
確かに説明版はあるのだが…
実相寺古墳群の説明版

勿論のこと報告書にはある程度記されているもののネットなりで調べなければ分からないものだし、自身が見つけることができなかったのかもしれないが公園内の配置図なり各々に標柱が必要ではないかと感じた。
場所や時間がバラバラだしねぇ。

朱の残る石棺
桜は散ったが、朱が残っているのが分かる。

別府市には歴史・民俗関連の公的資料館がないというのも理由だろうが、家形石棺蓋や朱の残る石棺等は地域史的にもかなり貴重に思えるので雨ざらしのままの現状は危惧している。
何より文化財の保存と整備は、後の活用と運用こそ難しい。

とまぁ嘆くのはここまで、個人的には十文字原第1遺跡にあったという縄文時代の集石遺構が最も興味深いものだった。
別府市周辺となるが、安心院の佐田京石、豊後高田市猪群山の環状列石、杵築市下山の環状列石等の石(巨石)信仰に関する流れの中にあるように思われるからである。
これらの巨石と信仰に加えて、地名と石工の考察を加えると見えてくるものがあるかもしれない♪

百合若大臣に登場する別府太郎と別府次郎とは?

幸若舞でも有名になった「百合若」に登場するが、全国各地にも伝説として残され特に大分県では「百合若大臣」と多く残っていたようだが、昨今は知る人も少なくなっていると思う。

別府太郎と別府次郎は物語に登場する悪役♪

実相寺古墳群のうち鷹塚古墳は近くに現状保存、天神畑古墳は消滅なのだが、鷹塚(たかつか・たかのつか)は緑丸塚とも呼ばれ、これも太郎塚・次郎塚同様に百合若伝承にかかる名称。

また同指定史跡内の鬼の岩屋古墳にも1号と2号があるが、こちらにも太郎と次郎を葬る予定だったという伝承が伝わる。

ということで、大分に伝わる「百合若大臣」の大まかなあらすじを示しておこう。

~~~~~
蒙古襲来で国司の百合若は得意の強弓で活躍し勝利するが、家来であった別府太郎・次郎に裏切られてとある島に置き去りに。
別府太郎・次郎らは帰国後、天子に百合若は病没したという虚偽の報告をして国司の栄誉を得た。

夫を失った春日姫に太郎は求婚を迫る。
百合若の死を信じない春日姫は手紙を書き鷹の緑丸の脚に結びつけて空に放すと百合若から血の返書があった。
春日姫は鷹の緑丸に硯や筆・墨を括って送り出すが、重さのために海に落ち、遺骸となって百合若の元に漂着。
(緑丸無念…、姫ヒドスw)
事を知った百合若は船を掴まえ帰還すると正体を隠し「苔丸」と名乗り別府太郎に仕える。
成り行きで得意の弓術を披露するチャンスを得た百合若は、自分を裏切った別府太郎を射抜き復讐を果たし春日姫とも再会、国司の位も取り戻した。
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子どもの頃に聞いていたためか、強弓を使用した活躍もあってか百合若=鎮西八郎為朝と思っていたのはご愛敬♪ 

さて、本題に移ろうw

実相寺古墳群報告書には、同古墳群の石棺からみた別府地域の考察を行い石工の移動と首長を考察して、「豊後における国造的地位は、実相寺古墳群の所在する速見郡から大分郡の首長に移ったものと考えられる(同書 171頁 田中裕介)」と記されている。

別府湾沿岸部の古墳編年表
別府湾沿岸の古墳編年

また上記の表を見てもそれを裏付けるように、4世紀から5世紀にかけて首長関連とみられる古墳は杵築と大分にて、6世紀になって別府に移ると大分・杵築地域の古墳造成は休止もしくは終息、7世紀になって再び大分に造成(古宮古墳が決定打♪)が見られるようになると別府では終息してしまう。

そこで歴史経緯を簡単に推測すると、速見郡の首長が何かうまい事をやって大分郡等の首長たちに取って代わり別府湾沿岸沿い(もしくは豊後国内)に力を伸ばしたが、結局行き詰るか戦に敗れて大分の首長が力を取り戻したということになり、話の構造は「百合若大臣」と全く同じものだと云える。

これらを前提にして想像(まぁ現段階では妄想だw)すると、「百合若大臣」には基礎となり得る全く別の伝説がありそこに登場するのはもしかして速見郡の英雄であった別府太郎・次郎兄弟だったのではないだろうか、それに上書きが加わったと…。

別府・速見の住民にとっての英雄譚が、悪役であるはずの太郎と次郎の墓として偲ばせたのかもしれない。
室町より昔の史料に塚名として残っていたりすると、調査意欲は俄然増すだろう♪ 

ただし「百合若大臣」は中世幸若舞の影響、壱岐の祭文や桃太郎との関連、九州から大分だけでない全国的な分布、鬼や鷹にその他の犠牲者という具現化された表象、坪内逍遙による古代ギリシアの詩人・ホメロスが謡った叙事詩「オデュッセイア」との類似等々、簡単に語ることは難しい。

興味深い百合若大臣の物語、伝説については、これまでにも各方面で諸研究がある上に民俗学でも柳田、折口の両巨頭も触れているので別の機会で詳細に考察してみたい題材である。

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