大臣塚古墳 骨と剣が副葬品、百合若と伝わる武人が眠る

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史跡 大臣塚古墳、大分市元町

大分市元町の10号線を北に向かうその左手、ちょうどスシロー大分元町店の向かい側にこんもりと丸味のある林が大臣塚古墳。

古くからこの大臣塚に眠ると伝わっているのは『百合若』という人物で、『百合若大臣』などの幸若舞や歌舞伎脚本の「百合若物」をはじめ「まんが日本昔ばなし」や絵本などにもなった物語。

この百合若に関連する伝説は各種あり遺構と共に日本全国に分布、特に大分県や長崎県壱岐島に数多く残っている。
大分市上野台地の東端にあるこの大臣塚周辺にも、百合若の愛馬、鷹、反逆者の墓、妻の身代わりとなった娘に纏わる池などの伝承が語り継がれてきた。

また頂上への入り口にある案内板にもある通り、江戸初期に水戸光圀が行ったとされる侍塚古墳の発掘調査(日本初と言われている♪)より半世紀も前に行われた文化財保存記録が石碑として古墳頂上部に設置されており、薄く判読しづらくなっているが「ゆり若大臣殿つか」と刻まれている。

市などの指定はされてないのは残念だけど、伝承類と石碑による保存記録が残る非常に貴重な古墳だと思う。

大臣塚古墳の概要

古墳を南から
文化財大臣塚古墳(史跡)
所在地大分県大分市元町1-25
駐車場無 (元町石仏の駐車場から徒歩)
お問合せ大分市文化財課 097-537-5639
アクセス【バス】JR大分駅から元町方面行約6分、「元町」下車、徒歩約5分。【車】大分駅より約10分
その他観覧料等無

大臣塚古墳への行程と周辺状況

大臣塚周辺地図

大分駅より直線距離で約1.5km、大分県立芸術文化短期大学の隣で上野台地東端崖上にある。

東に大分川を望む場所に位置し、10号線沿いのスシロー大分元町店やHIヒロセスーパーコンボ元町店の駐車場から西側台地を眺めると、ふっくらと盛り上がった林が確認できるだろう。

国道10号線から大臣塚を眺める
元町の10号線側から見た大臣塚

車で直接という手もまぁあるけれど、道は狭く軽以下でないと厳しいだろうから10号線沿いにある元町石仏の駐車場利用でそこからは徒歩で行くのが良いだろう。
JR大分駅からだとバス(元町経由)が良く、元気な人ならレンタサイクルの利用をする方が小回りが利くと思う。

元町の北(六坊北町や顕徳町)には、同じ百合若伝説に連なる「まこもヶ池」や中世大友氏と府内に関与する「万寿寺跡」、「大友氏館跡庭園」などもあり郷土史巡りも楽しい場所だ。

また百合若伝説に関連する古墳としては、ニックキ悪役として語られる別府太郎と次郎の兄弟の墓と伝わる別府市の太郎塚・次郎塚がある。

こちらは以前に紹介しており、百合若伝説の概略も掲載しているので興味がある方はセットでご確認を♪

大臣塚の現況と形式

大臣塚古墳は現状では円形部のみを残しているが、元々は前方後円墳で全長約50m、後円部径約35m、高さ約13m、前方部は掘削され元型を留めてはいない。葺石・埴輪・周濠を備え、墳丘の形状から五世紀中頃の築造とされている。

大臣塚を上空から想像復元
大臣塚を上空から見る。※上図は復元想像。

残念ながら近年の発掘調査等の資料は見当たらないので正確かつ詳細な調査は行われていない模様。
ならばと、全長50m程の前方後円墳(大臣塚)を作るのにはどれくらいかかるのかを想像してみたい♪

大分県内で最大級の前方後円墳は亀塚古墳(大分市里646-1)は全長116m。この築造にかかる諸推計を調べると、約2年半、延べ約16万7,000人、約18億8,500万円(現代換算時)が掛かったと言われている。
一応全国で最大の前方後円墳である仁徳天皇陵(全長486m)の築造については、大林組による現代工法との比較試算を見ると、古代工法では15年8カ月、延べ680万7千人(1日2000人・ピーク時)、796億円となっている。

亀塚や仁徳の数字を基準に大臣塚という全長約50m程の前方後円墳築造をザックリ想定すると、約1年、延べ3~5万人(1日150人・ピーク時)、約5~7億円程だろうか、まぁ大きく外れてはいないのではと♪
そうすると同古墳及び上野台地周辺の築造勢力(戦時も同等なら150~300人程の兵力とか、生産石高)がどれくらいであったのかが大凡見えてきそうな気もする、まぁ他にも数字が必要だけど♪

では次に築造時期とされる5世紀中頃とのことだが、これは倭の五王(讃・珍・済・興・武)の時代で450年に注目すると凡そ倭王済のあたり。
『三国史記』に440年、444年に倭が新羅に侵攻したともあるように、色々と半島情勢がキナ臭かった時期にあたる。
大臣塚に眠る方もこれらに関わっていたのかもしれないが、まぁ史料等もないので全くの不明ってのは仕方のないところ^^

この項の最後に、参考として別府湾沿岸の古墳編年表を再掲しておこう♪

別府湾沿岸部の古墳編年表

大分市の上野台地周辺にある古墳の推定築造年代は、亀甲山古墳(古宮古墳の北側にあったとされる)、蓬莱山古墳、大臣塚古墳、弘法穴古墳、丑殿古墳、古宮古墳の順となる。

古墳マップみたいなのもあると分かりやすいかもなぁ、と思ったみたいなので「亀甲山古墳」か「亀塚古墳」あたりの記事作成することがあれば作ってみようかと♪

江戸初期の府内を揺るがした石棺墓の発見!

令和5年に吉野ヶ里遺跡の石棺墓発見で「中にはいったい何が?」と古代史マニア以外からも大きな注目が集まっているわけだが、実は江戸時代の府内(大分)でも幸若舞や歌舞伎で演じられる人物の墓が見つかったと大騒動が起きていた@@ 模様♪

まぁその騒動の中心がこの大臣塚だったりする。

大臣塚古墳の案内板

これは大分市誌(伊藤正男 編 全国市町村誌刊行会 昭12)他にも記されていて、『雉城雑誌』や『鹽(塩)尻』から引用して江戸初期に人骨他が発見されたことが記されている。

『雉城雑誌』:豊後府内藩士阿部淡斎(1813-1880)が天保年間(1831-1845)に、豊後府内の神社仏閣や名所旧跡等を編纂したとされる地誌書。ただし、日根野吉明の時期より既に二百年が経過している点には注意が必要。
『鹽尻』:著者は天野 信景(あまの さだかげ 1663-1733)で江戸時代中期の国学者、尾張藩士。この『鹽尻』は、全千巻とも言われる一大随筆集で、当時の歴史、地理、言語、文学、制度、宗教、芸術などについての見聞や感想を記したもの。

まずは、『雉城雑誌』を現代風(単語等一部は原文のママ)に変更し、引用してみたい。

聞書曰として記す。
寛永十二(1635)年七月二十五日に大風があり千手堂町裏の三本松が倒れ、里民は城主である日根野吉明にその事を訴え出た。
吉明は現地へと趣きこの巨松の由来を問えば、彼らは村の古老に伝わる話として往古の国司百合若大臣の伝説(当時の百合若譚、ここでは略す)を語り、この塚を大臣塚と云うと。
吉明は里民の話は信ずべきで補修をしなければ後の世に崩してしまうだろうとして、翌十三(1636)年九月家臣の木口與左衛門と小倉九郎右衛門に「旧の如くに」と補修工事を命じた。その際に不思議なことが起きたと伝わっている。木口と小倉が復旧のため三本松を植え替えようとすると、鷹が現れて啼き続け追い払っても逃げることはなく、まるで石棺を守っているかのようだったと、しかし植え替えが終わった後はその姿も見えなくなったと云う。
工事を進めていると、石棺が現れ作業にあたっていた村の若者がその蓋を開けたとたんに目眩を起こし気絶してしまった、これは同年十月二日のこと。
このため吉明は万寿寺の僧丹山と共に現場に臨んでその石棺を確認するに、その霊骨は東首(東に頭を向けて寝ること)し、まるで活きているかのごとく、併せて佩刀、甲冑及びその他の道具があったもののしばらくして壊れてしまったと云う。
同年十二月、僧丹山の碑銘を記した石碑を建立し、この後は十月二日をもって万寿寺により祀る(祭祀を執り行う)こととなった。

『雉城雑誌』

続いて「鹽尻 巻之四十一 六六四頁、帝国書院版、1907年」も簡単に引用しておく。

世間で謂う百合若【大臣とも】は、豊後国船居(府内)に伝わる故事である。
(中略)
百合若塚を発(あば)き、石棺の中から白骨一具あり、古刀も一柄朽ちて残っていた。領主(日根野吉明の事か)も御覧になり元の如くに埋めて祀るように命じたようだ。
(後略)

『鹽尻 』

これらの記述によると、江戸時代の初頭、日根野吉明が府内藩主であった頃に現代で言えば発掘調査♪に近い事が行われたようだ。
時間的に近いのは「鹽尻」の記述であり、この話題が豊後府内に留まらなかったことも見えてくるし、吉野ヶ里の石棺墓発見のような一大ニュースであったことは窺えそうだ。

他にも日記関連等で構わないから史料があれば、色々と嬉しいのだけれど^^

日根野吉明が建立した石碑

埋め戻した際に建立されたという日根野吉明による石碑は後円部頂上にあり、北側鳥居及び南側案内板から登れば至る。
百合若大臣の墓だと記されてはいるようだが、その刻字は薄くなっているため判然としないものの大分市誌等には記されているので興味のある方はそちらが参考になるだろう。

「この時の図面でもあれば!」とか「もう一度調査してほしい!」なんて思わないでもないのだけれど、そのままに埋め戻したという吉明の行動は現代の文化財愛護精神に通じるものはあるだろう。
府内藩主の吉明は初瀬井路の開削で名君としても知られるが、この時は府内藩主として着任(1634年)したばかりでもあり、大臣塚の案件では民心を慰撫する必要もあったのかもしれないと思う。

一方で大臣塚という名称は、「豊後国大友時代末期府内絵図」、「府内古図」、「日根野時代府内藩領図」等の古地図、現大分市中心部の古絵図にも記されている。
特に「日根野時代府内藩領図」は『百合若大臣塚』と丁寧な表現だったりするのは「同時期の発掘の影響なのかもかも…」などと妄想も膨らむもの。

豊後国大友時代府内絵図より

各絵図の正確な成立年代が分かると百合若及び塚伝承の時間軸も見えてくるのだが、各地図が写しであり時間的な修正も推測されるために確たる(まぁ江戸初期以降だよね~ってくらい^^)ことは言えそうにない。

これらの絵図は、大分市デジタルアーカイブ~おおいたの記憶~(https://oitacity-archive.jp/)でも簡単に見ることができるので、府内時代の街並みを想像するのにも面白いかと♪
簡単にみられて有難くはあるのですが、全体的にダウンロードできる画像を含めて少し小さくあるため文字が潰れて読めなかったりする点は何とかしてほしいなぁと思っております。

大臣塚と百合若伝説

これは現在も調査中♪ 申し訳ない><

伝説で百合若は蒙古と戦ってたりするわけで、まぁそうだと古墳の時代とは全く異なるわけで…、被葬者はいったい誰かと^^

専門が口承文芸(まぁ伝説と思っておk♪)なんだけど、最近の調査・研究(魚名方言、地名)によって、伝承が形成された理由が少しづつ見えてきてる。
例えば、エノハの名称由来伝説はどうやら他の川からの移植があったから、またタキタロウは新たな心意現象が元々の神の話を書き換えた、風土記による地名由来は前の地名を上書きする必要性があった可能性がある、等々の事例を参考にこの百合若伝説と大臣塚を考えてみたいと^^

例えば悪役の別府兄弟だけど実は別府だけでなく上野台地周辺にもお墓があったようで、これ以外にも鷹の緑丸、百合若の愛馬、身代わりとなった娘に万寿寺などの話も伝わっていてまだ整理がついていない。
しかも日出には別府兄弟に関連する祟りの伝説があったりし、上記古墳編年表で見るように別府と大分で権力者が変わっているようにも見えるのでねぇ…。

しんけん興味深くないですかね? この百合若伝説♪

今後は大分に残る百合若伝説を拾い集めていくことが今は重要だと考えていて、全国の類例も集めつつ話を広げないとねというわけであります。

ただこの百合若伝説については、明治に坪内逍遙が『早稲田文学』の「百合若伝説の本源」で示した「戦国期、南蛮人による伝播ではないのか?」というテーマに関して、折口信夫や柳田國男といった民俗学関連だけでなく津田左右吉、和辻哲郎、金関丈夫、南方熊楠、新村出といった錚々たる顔ぶれが反応してるだけででなく、現在でも取り上げられているわけで適当なことを言うのはかなり危険かとw

まぁこの伝承が室町以前に遡るか否かってのは面白かったりする、大分だけで見ても府内各古絵図からも分かるように江戸初期には大臣塚と百合若伝説は見えているのだからそれ以前の様子は?ってことになるのかと。

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