元町石仏、岩肌から掘り出された高さ3mの摩崖仏

スポンサーリンク
元町石仏

大分県内を代表する石仏・摩崖仏と言えば臼杵石仏や熊野摩崖仏がすぐに浮かぶことだろうが、市街地から程近くにある「元町石仏」はそれらにも並ぶものであることを意外に知らない人は多いだろう。
石造物及び仏教美術としての評価も高く、昭和九年という古い時期に国史跡と指定されていることからも分かると思う。

石造物群としては岩屋寺石仏と同様に風化が進み判然としないものばかりではあるけれど、本尊である薬師如来は堂内に入った人を「はっ!」とさせるほどの雰囲気を持った素晴らしい仏様だ。

元町石仏の概要

薬師如来坐像・元町石仏
薬師堂本尊の薬師如来坐像
文化財国史跡
所在地大分県大分市元町2-2
駐車場有、無料
お問合せ大分市文化財課 097-537-5639
アクセス【バス】大分駅から元町経由の大分バスで約7分。
「薬師堂前」下車、徒歩約5分。
その他観覧料等無

元町石仏の位置とルート

大分駅の南側にあたる大分市立美術館から東方向、大分上野丘高校等のある上野台地上の東端部にこの元町石仏は位置している。
周辺鳥瞰図をGoogle earth Proにて作ってみた。

大分市元町周辺鳥観図
元町石仏周辺の鳥観図

大分駅周辺から元町経由のバスで「薬師堂前」下車が最寄りとなるなのだが、下りだと横断歩道が少し離れているので注意、周辺の史跡見学も併せて自家用車以外なら大分駅からレンタサイクル利用が良いかも。

元町石仏の駐車場
無料駐車場

自家用車なら、10号線沿いのフォルクスワーゲン大分中央前にある踏切を渡ってすぐ左に専用の無料駐車場がありそこから徒歩5分ほど、小さいながらも案内石板があるので迷うことは無いと思う。
数十年前の記憶で申し訳ないが、10号線沿いに大きな標柱が立っていたのでは?と思う…、間違ってたらスマヌ♪

薬師堂、岩薬師
薬師堂を北側より

周囲が開けてくると、右手の崖沿いに薬師堂が見えてくるだろう。

まぁお堂の脇にも広場があっやけれど外来駐車可能かどうかは分からないため、素直にJR久大線脇の駐車場利用をおすすめしたい。

元町石仏の特徴

元町石仏も岩屋寺石仏と同様に風化が激しく1995年、2015年に覆屋が修復されており、現在の木造瓦葺の外観は新しく見える。

薬師堂
木造瓦葺の薬師堂を正面から

厳重そうな外観に心配性な自分は、「堂内に入れないの?」と一瞬不安になるwwwも、お堂正面扉の打掛錠を回し中へと入る。

すぐに石仏というわけではなく、正面扉の内側は風化対策のために小さな風除室が設けられており堂内は二重構造になっていた。
これは塩類により風化(調査報告有)が早まるようで、堂内の換気を少しでも減らすためとのこと。

薬師如来・元町石仏
薬師如来坐像のお顔をアップで♪

風除室から内部へと進めば、優し気なお顔の薬師如来坐像が迎えてくれた。

案内板や報告書によると、阿蘇溶結凝灰岩の岩肌に刻まれた摩崖仏群で、本尊である薬師如来坐像は丸彫りに近い厚肉彫りで刻みだされており高さは約3m。

伝説によれば、敏達(びだつ)天皇の時代に百済から来朝した日羅の作とされ、以前は造立時期の推定も色々とあったが近年の研究では11世紀後半の造像とされている。

右側の頬は剥落しているものの豊かで丸い顔は優美、肉髻(にくけい)は高く、地髪部にかけての螺髪(らはつ)は整然として、丸い顔面に弓状の眉、厚いまぶたに切れ長の伏せ目、花弁の形をした小児のような唇、豊頬は優しく美しく、穏やかなこの童顔は定朝様の伝統を踏襲している。

岩男順氏らの研究によれば、剥落した部分に鉄釘を打ち込んだ跡や右手首の付け根の鉄芯などから、地石の不足する部分を粘土や別石で補い、石造彫刻だけでなく塑造・木造技法も併用した当時の豊後地方磨崖仏制作集団及びその技術の自由さを示すものであるという。

不動明王
風化した不動明王立像

この薬師如来坐像を中央に、左手側に多聞天立像とその妻子とされる善膩師童子(ぜんにしどうし)と吉祥天像が左右に、右手側に不動明王と矜羯羅〔こんがら〕童子、制吒迦〔せいたか〕童子の二童子が左右に刻まれていたとされるが、残念ながら本尊の薬師如来坐像以外は風化が激しく、その姿は判然としない。

薬師堂左手の覆屋
薬師堂左手の覆屋にも摩崖仏はあったのだが…

薬師堂の向かって右側にも覆屋があり、三尊形式の像が二組残されていたというが、岩屋寺石仏と同様に、現在はほとんど摩滅風化している。

元町と石仏の歴史と地理

元町石仏は昭和九(1934)年の国指定ということで大分県内指定物件の中でも最初期頃にあたり、高瀬石仏、犬飼石仏、菅尾石仏、緒方宮迫東石仏、緒方宮迫西石仏も同時に指定されている。
これは現文化財保護法以前の指定であり、昭和四(1929)年の「国宝保存法」及び昭和八(1933)年の「重要美術品等ノ保存に関する法律」によるものかと思う。

これらの摩崖仏は古くから広く知られていたというだけでなく、この時期は国内にあった歴史・文化遺産の国外流失が目立ち始めた頃でもあり、丁度大分県内の重要な摩崖仏群、仏教美術として指定の流れに乗ることができたのだろう。

元町石仏

一方、造立当時(十一世紀頃の推定)の元町付近は「勝津留畠(かちがづるはた)」と呼ばれた宇佐神宮領であったようで、岩屋寺石仏と共に同宮の後ろ立てをもって造立され、岩屋寺の寺域として整備されたと推測される。
石仏のあるこの上野台地周辺には、大臣塚古墳、豊後国府の推定地とされる古国府、大友氏の館などが点在しており、元町を含めた台地周辺は豊後国の中心として栄えていたのかもしれない。

1910年代の地図を見ると大分市街から南に延びる道は大きく二つで、大道から大平寺へ越える佐賀及熊本街道と金池から岩屋寺石仏へと越え広瀬橋を渡る宮崎街道が記されており、これらが当時の主要道であったことが見えてくる。

元町周辺地図
大分市の地図、1914年より

上に示した地図は1914年頃の大分市周辺地図(hinataGIS今昔マップ on the web 参照)から上野台地東端部分を拡大したもの。

現在の元町石仏前の道はこの当時から行程自体は大きく変わっていない様で、主要な道は台地上であり元町側は脇道だったのだろう、ちなみに上野の文字の下にあるのは大友氏の上原館跡。
ただし大分川の堤防が未整備の頃から水害を避けるように崖沿いに家が集まり、その中を古道が通っていたであろうことは理解でき、旧岩屋寺の跡に次第に人が住んでいったのかと想像するのも面白い。

また元町石仏の位置には「岩薬師」と記されており、国道10号にある最寄りの現バス停名も「薬師堂前」であることから、元町の薬師如来として親しまれ崇敬されていたことも窺える。

個人的な興味としては、元町の地名及び由来(「勝津留畠」からの変更含め)と石仏沿造立にまつわる日羅伝説との関連が非常に気になるところで、上野台地周辺の調査を進める段階で何か見えてくるものがあれば別に記していきたい。

コメント

タイトルとURLをコピーしました