タキタロウ考 其参 「上書きされた伝説」という仮説の成立

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タキタロウ考 其参

実のところタキタロウについて考察するきっかけとなったのは、魚名方言について山形県のイワナ掲載史料を調べている時に出会った酒田市立図書館蔵の『両羽博物図譜』、著者は松森胤保。

この内容はタキタロウのwiki頁にもあるように、松森は瀧太郎を鱒類のうち岩名の内の瀧上種とし、大鳥ノ池での釣り方にも触れている。

そこで『両羽博物図譜』の瀧太郎関連の記載内容と、今にあるタキタロウ伝承や事例、その他資料とを時系列と共に考察することで、口承文芸としての伝説が形作られる一つの形式を想定することができるかもしれないなと至ったわけでwww

タキタロウ考壱及び弐ではその伝説や特徴などを纏めてみたが、ここからは(魚種を特定するだとか秘密を暴いて晒し物にするだとかいう気は民俗学徒として毛頭ないが)釣り人や怪魚等の浪漫を求める方にはあまり興味を惹く内容ではないかと思われる。

ここからがタキタロウ考の本論部であり、歴史・民俗的考察からタキタロウ伝説の姿に迫ろうとする試論でもあるので、最後までついて来ていただける方が居られると嬉しいなと^^

※山形県の伝承や民俗調査とあわせて大鳥池に赴きたいとは思っているが、現時点では未探訪。
※ここでは、大鳥池の巨大魚や未確認生物(UMA)とも言われているものはタキタロウ、『両羽博物図譜』に記されている魚は瀧太郎と表記する。

両羽博物図譜に見る瀧太郎

「両羽博物図譜」は山形県文化財、著者の松森胤保(1825~1892年)は庄内藩士で江戸末から明治にかけての博物学者、1842年以降に随時記されたとされる。

同図譜は羽前と羽後(山形、秋田)の動物・植物・昆虫・魚類等が美しい彩色で描かれた図鑑であり、本草学が博物学へという移行時期に意欲的な分類に挑戦しており、個人的には当時の方言語彙も記されている点が魚名方言を研究・調査している立場からも特に高く評価したく思う。

両羽博物図譜 岩魚種の頁
松森の描いた岩名 (酒田市立図書館より)

両羽博物図譜の世界 18 魚類図譜 川魚部」から『岩名種 鱒類種別五種之第三種』の段を以下に引用する。

【凡例】
※以下の引用は「両羽博物図譜の世界」に記載される岩名種の読解文は一部が抜けているため、こちらで掲載画像の原文を参考に読解した。
※句読点、空白、改行、()内は筆者によるもの。
※下線部は瀧太郎に関するものである。

岩名種  鱒類種別五種之第三種

深山ノ急澤ニ居、味美ナラス。
大物ヲ瀧太郎ト云、五尺計ノモノ大鳥川ヨリ流レ来ルコト有ト聞ク。

深山ノ小澤魚ノ居ヘキニ似サルニ於テ、人影ヲ示サスシテ浮シ釣ヲナセハ意外ノ大物出テゝ之ニ掛ル。
其餌ハ必シモ水面ニ浮カノミナラス、水面ヲ離ルゝ事五六寸内至一尺斗リノ上ニ示スモ猶之ニ掛ル事有ト云フ。

一、或云[最上郡四谷村猟夫某ノ語]、岩名類大別シテ二種トス、一ヲ瀧上ノ種トシ二ヲ瀧下ノ種トス。

此ノ瀧上瀧下ト云フハ、凡山川ノ水流ニハ必ス大滝アリテ如何ナル魚類ト雖モ決シテ昇降スル事能ハサルモノ有ヲ常トス。
カゝル瀧ヲ境トシ、上ニ生スルハ終生海ニ往来スル事ナク下ニ生スルハ海ニ(※1)上下スルモノナリ。
之ヲ以上種下種ノ二別ヲナスモノナリ。

瀧上再別シテ左ノ三品トス。
大鳥ノ池ニスム物ノハ、此三品ニシテ則瀧上種ナリ。
之ヲ釣ニハ十八尋ノ綸ヲ用ユ、然レトモ一尺位ヨリ大ナルモノナシ。

第一品 赤腹岩名 腹ノ赤キコト井守(※2)ノ如シ
第二品 淡紅腹(※3)
第三品 白腹岩名

右ノ三品背紋モ皆異ナリ之ヲ捕レハギイ々々ト云フ音ヲ発ス、赤腹ノ音最高シ。

又瀧下ノ分、之ヲ再別シテ左ノ二品トス。

第一品 海登[又大岩名] 此品味美ナリ、瀧上ニ達セズ
第二品 川岩名 白腹ナリ、亦瀧上ニ達セス

万一湖水等ニ畄(登かも)、辺ニテ(※4)年ヲ重ヌル時ハ又其容貌ヲ変易ス。
以上合セテ二種五品トスト云フ

※1 サイトの読解文は「海を上下する」ではあるが、提示されている原本の読み自体はニかと思う。「両羽図譜」の一部しか読んでおらず同字の筆癖も不明なためヲの可能性も捨てがたいが、前段「海ニ往来スル」から「海ニ上下スル」が素直な読みではと思う。また、ただの誤記の可能性もある。
※2 井守はイモリのこと。
※3 サイトの読解文には「淡紅腹」の下に岩名を付す。
※4 辺の下がニなのかシなのか? サイトではシと読むようで「万一湖水等に畄(留)辺して」と読む。畄(留)辺に関する語句は不明だが大凡の意味は通じるので問題はないと思う。ただここではニを優先し「万一湖水等に畄(留)り、辺りにて…」、もしくは畄が登にも見えるので「万一湖水等に登り、辺りにて…」とも読んでおく。

下線を付した瀧太郎に関連する文章を現代風にして取り上げてみる。

(前段)岩名種 深山の急な沢に棲み、味は美味しいとはいえない。

大物を瀧太郎と言って、五尺(約1.5m)程のものが大鳥川から流れて来る事があると聞く。

(中略)

瀧上種の岩名は次の三品に分類される。大鳥ノ池の物は、その三品の内で瀧上種である。
之を釣るためには、十八尋(※5 約27~32m)の釣り糸(綸)を使うのだけれども、一尺(約30cm)程から大きなものはいない。

(後略)

※5 1尋を1.5mもしくは1.8mで計算した。

両羽博物図譜にある「瀧太郎」を見たわけだが、

「お~! タキタロウの記述が江戸末期からあったんだ@@」
とか
「深いところに居たなら、やはりタキタロウの伝承もこれで真実味を帯びるかもしれない!」

などと読むのは少し足早なのではないか?という点について、これから語っていきたい。

ただ記述の大部分が大鳥や赤川周辺住民ではなく、『最上郡四谷村猟夫某』の聞き書きである事には注意したい。
※最上郡四谷村を探してみたが見当たらなかったので、おそらく現山形県西村山郡西川町四ツ谷川沿いにあった四谷だろうと推測。

瀧太郎≠タキタロウで、瀧太郎⇒タキタロウ?

松森が記したのは、岩名種のうちで大鳥川を流れ下ることもある最大で1.5mにもなるという(イワナの)大物を瀧太郎と云うのであり、大鳥池に棲むイワナは滝上種で深いところに居るのだけれど30cmを越える魚は居ないと。

「五尺程のものが大鳥川から流れて来る」との関連から「大鳥ノ池」に棲むのは尺以下なので、五尺程の大物が池から流れ落ちてくるのではないと理解し得る。
故に『大鳥ノ池ニスム物』とは岩名種を指したと考えるのが自然であり、同池における岩名漁で使用されている漁法(深いところを長い糸で釣る)を紹介しているだけである。

つまり、大鳥池の巨大魚タキタロウの初出でも史料でもないことが理解できる。
UMA系のWEB記事などではタキタロウのことを書いているとの記述もあるし確かにタキタロウ伝承の香りはするものの、それは全く正しくない。

大鳥川を流れ下った大物(何処で捕れたか等不明な点は確かにあるが)が瀧太郎であり、大鳥ノ池に棲むのは滝上種の岩名のみとなるわけで、大鳥ノ池の物は尺以下ということもあり此処から下った巨大魚でなく、単に大鳥川水系の岩名種の大物を「瀧太郎」と呼ぶという記述だ。

「瀧太郎(竹太郎も含む人名からの名付け譚も併せて)」と云う言葉のみに注視すれば、大鳥川流域もしくはそれよりも下流の赤川全域で使用されていたイワナの大物に対する名称だと考えられよう。

タキタロウの有無、真贋はおくとしても、松森の記述はタキタロウを示しているのではないことから、明治末期以降に大鳥池で確認された未確認の巨大魚の名称にイワナの大物の表現であったはずの「瀧太郎・竹太郎」が変化もしくは上書きされたと言えるのではと。

松森の記述から、瀧太郎≠タキタロウであり、瀧太郎・竹太郎⇒タキタロウになった可能性を指摘しておきたい。

出羽風土記の大鳥紀行に見える伝承

さて松森の記述からタキタロウに直接関する1900年以前の史料は現時点では無いといっても良いことになる。

現時点でも山形県田川郡に関連する史料は継続調査中だが、大鳥池を巡る伝承が記された書籍を見つけることはできた。
それが出羽国風土記(明17.12)であり、巻の1に増補として『大鳥紀行』が挙げられており、往時の大鳥池の様子及び伝承を窺うことができるので一部を抜粋しておく。

大鳥紀行 明治十三年八月四日晴九十三度(※6)
  七十一才 氏家浄閑誌

當國東田川郡の南隅に在る大鳥の池と云へるは容易すく人の至り見ぬ堺なれは一度はそこに遊ひ見んと思ふ
(中略)
偖て次の日朝またき(※7)より池に参し度思ひ案内の人とらはやと懇々主人に頼みしかど村の人誰もいなみて行かす何に故ぞを問ふに村の人々ありて池に遊ひ広狭深浅なと測量しつる事あらは神の威稜のいやちこ(※8)なる忽ちに風雨を起し池水荒れ夫れかため民田を失ひし事今に幾千刈と云うを知らずと民俗之を云ひ伝へて村民誰とて往くものなしといとまめまめやか(※9)に云へるにそ怪しかる事には思ひたれとも僻村の習俗またあらかふへくもあらすとて遂ひに此の一行をば思ひ断ちぬ
(後略)

※6 華氏表記、当時は摂氏より一般的だった模様。
※7 現代表記なら「さて、次の日朝まだき」となる。朝まだきは。夜の明けきらないころ、早朝の意。
※8 灼然。神仏の利益や霊験などのあらたかなさま。
※9 忠実忠実し・実実し。いかにもまじめだ。本気だ。

一応分かりやすく現代語訳を添えておく♪

出羽(羽前)国田川郡の南隅にある大鳥ノ池と云うのは、人が簡単に行ける場所ではないので一度は行ってみたいと思っていた。
(中略)
さて、翌日早朝から池に行くために案内の人をと宿(村の主だった半三郎・甚十郎などの家)の主人に丁寧に頼みこんでみたものの、村の人々は皆同行を断ってきた。どうしてかと彼らに聞くと「池に旅したり(遊ぶ=「…にあそぶ」で見物や勉学のために他の土地へ行くより)面積や深さ等の測量するようなことがあれば、神意はあらたかとなりたちまちに大嵐となり、池の水も荒れて洪水となり下流の田畑が失われることが幾度となくあったと言い伝えられており村人は誰も行くことはない」と。本気で言ってくる様子に怪しくは思いつつも、鄙びた村の習俗とはこのようなものかと言い争うこともせず池への旅行を諦めることにした。

読むのが面倒な人向けにより簡単にするとw

大鳥池の観光に行きたいという氏家氏ら一行に対して、大鳥池は神聖な場所であるため遊びがてらに行くと大嵐が起きるので同行はできないという話。

イワナの大物である瀧太郎も大鳥池の幻の巨大魚タキタロウもその理由に無く、神の霊験により大水が出るから止めてくれと村人は切に願っているのみだ。

名称だけでなく神をも上書きしたタキタロウ伝説

タキタロウ考其壱でも紹介した類話を再掲してみる。

地元の言い伝えでは、タキタロウは暗雲を呼び、嵐を巻さ起こせる。
捕らえようとすれば、洪水が村を襲い、田畑に害を及ぼすとされる。

これは新聞記事でもあるが、当然大正・昭和以降の聞き書きだろう。
明治13年の『大鳥紀行』の伝承とはストーリー自体はほぼ変わらないものの、神ではなくより具体的なタキタロウに変化いや上書きされていると言った方がよいだろう。

瀧太郎がタキタロウに変じたという仮説

以上の通りである「両羽博物図譜」と「大鳥紀行」の記述から江戸末期から明治期にかけてを想定を含めつつ整理してみる。

①瀧太郎とは大鳥川及びその下流域を含めて、岩魚の大物を表した言葉であった。
②大鳥池には尺以下のイワナしかいなかった。
③大鳥池は神の地であり遊びで行くと下流に洪水が起きる。

ところが凡そ1910年頃の大正以降になって何故か大鳥池でこれまで見たことの無いような巨大魚が獲れることになった。

④これは昔から謂う瀧太郎ではないのか?
⑤岩魚の大物であった瀧太郎と巨大魚であるタキタロウが混交状態となった。
⑥古くを知る人が減り、魚名語彙である瀧太郎と大鳥池の伝説をタキタロウが上書きし終えた。

これらをより砕けて言うならば、

「おっかあ、今日の晩飯ゃあなん(何)かいのぉ?」
「はす向かいの権さんが瀧太郎獲ったち、お裾分けにもろうたんでぇ♪」
「そりゃあ、おごっそう(御馳走)じゃのう!」

などというような会話が江戸末期の大鳥川流域にての風景であったかもしれない。
そして大正初期以降に大鳥池にて、

「おい珍よい、大けな魚が大鳥池に居ったっち」
「憧さん、そりゃあ岩名じゃろがえ? 瀧太郎じゃあわえ」
「やっぱ瀧太郎かのぉ?」

そしてこの巨大魚の情報が増えると、

「なんか大鳥池じから、タキタロウちう見たことんねぇ大けな魚が釣れるらしいで」
「タキタロウかぁ、どげな魚なんかのぉ?」

人々の間で言葉が広がりをみせ、集落・共同体の中で瀧太郎かタキタロウへと意味が変じて行ったのではと考えている。

当然ながらここに魚体の特徴という信憑性の高い情報が付加されることによって幻の巨大魚タキタロウが確立すると同時に、これまであった大鳥池の神意伝承の根本がタキタロウによって上書きされ、より神秘性を持った話も付加されたと想定するのはある種当然の流れだろう。

簡単ではあるが、このような変化の仮説を想定してみた。
もしかするとタキタロウ伝説は昭和に形成されたものだったのかもしれないと…。

※山形弁の会話表現は不可能なので、大分弁チックにて申し訳ないw

さて、次回は最終段となるタキタロウ考其肆となる、既にタキタロウはどのような魚とか話の真贋はどうでも良くなっていたりする。
ただし何処に着地させるのか、自分でも分からなくなってきたwwww

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